2-5話 オウル亭の夕べ
夕食の時間。
私は、オウル亭の1階の食堂を訪れた。
オウル亭は主に、2階が宿泊客の部屋、1階が食堂と、オウルさん一家の居住スペースになっている。
食堂は宿泊客以外の人も利用できる大衆食堂だ。
空いている席に着くと、ネリーちゃんがやってきた。
「メルティさん、お久しぶりです!」
「ネリーちゃん!久しぶりだね!元気だった?」
私は再会の挨拶の後、注文を聞かれ、今日の日替わり定食のメニューを聞いてから、それを頼んだ。
ネリーちゃんはオウルさん夫妻の2番目の娘で、ザジちゃんのお姉さん。確か、今年で12歳。
夕方のかき入れ時はこうやって食堂を手伝っている。
ちなみに、オウルさん夫妻の子供は3人いるけど、一番上の娘さんはお嫁に出てしまって、もうこの宿にはいない。
旦那さんはこの食堂の厨房と薪割りを主に担当している。無口なのであまり表には出てこないけど、いい人だ。
おかみさんは宿屋のカウンターにいるので、食堂にはいない。
一番気になっていたザジちゃんも、ここにはいないようだ。近くの公園にいるのかな。
とりあえず、ほっとする。
周囲を見渡す。
私は大体この時間のここを訪れるが、この時間はまだあまり人がいない。
普通の冒険者はもう少し遅くに帰って来る。冒険者以外のお客さんも、まだあまり入ってこない。
私は今までジョブ無しの、冒険に出られない冒険者だった。
他の冒険者達に会うと気まずかったので、普段からこの時間に訪れていた。
スライム娘となった今も、たぶんこの時間がいいのかもしれない。
最も、早い時間に入ってこれるのは、今は私がまだ新米だからだけど。
もう少し遠くのダンジョンとかにも行けるようになれば、そうはいかないかもしれない。
「はーい、お待たせしましたー」
ネリーちゃんが出来上がった食事を持ってきた。
「ネリーちゃん、ありがと!」
テーブルに今日の食事が並ぶ。
今日の日替わりは、メインは魚のムニエル、付け合わせの野菜、そしてパンにスープだ。
「じゃあ、いただきます」
ネリーちゃんが戻った後、私は食事を始める。
今の私は、スライム娘。
この体になる前みたいに食事をするわけにはいかない。
私はスライム娘だとバレないようにしながら、この食事をとらなければいけない。
私はシリコンの手で、ナイフとフォークを握る。
握ると言っても、この手は人間の時とは違うので、同じようには握れない。
どちらかと言うと、シリコンの手から汗のように粘着物質をにじませて出し、手にくっつけて持つ、という感じだ。
フォークでムニエルを押さえ、ナイフで切る。
修行時代の食事の練習のおかげで、この動きもちゃんと出来るようになった。
スライム娘になったばかりの頃は、ナイフで食べ物を切る事も出来なかった。
切ったムニエルをフォークを使って口元に運び、口に入れる。
食べ物を入れられるように、ポケット状に空洞になっている。その中に食べ物を入れていく。
その後、私はもぐもぐする。
噛んでいる、と見せかけて、噛んでいるふりをしているだけだ。
歯もシリコンなので、柔らかい。なので食べ物をかみ砕けない。
噛んだふりをした後、それを飲み込む。
口の奥はシリコンではなく、喉のように見えるように着色しているだけの、液状のスライム状態のままだ。
その液体の中に食べ物を投入する。
体内に入った食べ物は、体の真ん中くらいに移動する。
そしてそこで消化される。
泡が食べ物の廻りを包み込み、しゅわしゅわ音を出しながら消化されていく。
私の体は透明なので、その様子は外からも見ることが出来る。今はローブで隠れているのでその様子は見えないが。
泡が出ると同時に、ムニエルの味が体全体に広がる。
全身で味わえるのは、スライム娘の特権だ。こればかりはスライム娘になって良かったと心から思える。
厨房前のカウンターのあたりから、ネリーちゃんがこちらの様子を眺めている。
私は笑顔を作り、美味しいよというサインを送る。
ネリーちゃんはほっとした表情になり、奥にいるお父さんにオッケーのポーズを取った。
私は食事を続ける。
オウル亭の食事は本当においしい。庶民的で、家庭の味だっていう感じがする。
初めてその食堂に入った時、死んだお母さんの料理を思い出してしまった。
この料理に胃袋を掴まされた私は、このオウル亭を拠点にしようと決めたのだ。
なおその料理を作ったのは男の人だったと知ったのは、つい最近だ。
「ふぅ……おいしかった」
私はお腹がいっぱいになった。もちろん胃袋なんてないんだけど。
ちゃんと食べ物を食べると、なんとなく、私のとろとろの粘液が調子良くなる気がする。
食事してから時間が経つと粘液の巡りが悪くなり、濃さも薄くなる気がする。
食事を採ると巡りが良くなり、粘液の濃さも増す。
食事の栄養素が、私の粘液を作っているんだなと思う。
「ネリーちゃん、旦那さん、ごちそうさまでした!」
私は2人にお礼を言って、宿屋とくっついている通路のドアを開けて食堂を後にした。
「メルティさん、またね!」
ネリーちゃんが挨拶してくれた。
私は部屋に戻る。
外を見る。日が沈んで、ちょうど暗くなってきたあたりだ。まだ早い時間と言えば早い時間だ。
私はドアに鍵をかけ、部屋のカーテンを閉める。
これで、私の姿を誰にも見られずに済む。
「ふぅ……」
私はひと息ついて、ローブを脱ぎ、クローゼットに入れた。
鏡を見る。
ローブの下の、透明なままの胴体が露わになった。
「これで、戻れるよね、うん……」
これで私は元の姿に戻れる。
シリコン化した、顔、手、そして下半身を、とろとろの形に戻した。
顔と手は色と硬さを失い、足はさらに形を失い、私は上半身人間で下半身まん丸の『通常形態』に戻った。
「ん~~っ、疲れたっ!」
私はとろとろの体を思う存分伸び縮みさせ、リラックスする。
疲れたと言っても、この体は筋肉が無いので、人間のようないわゆる疲労は無い。
しかし精神は人間なので、精神的には疲れる。
スライム娘になってから、人間に変装して過ごす、初めての一日だった。
こんなに長時間シリコン化した姿で過ごしたのは初めてだ。
うん、よく頑張った、私。
なんて事の無い日常が、スライム娘として生きる私には大変なのだ。
オパールさんから貰ったMP測定器を確認する。
うん、どうやらシリコン化に使ったMPから減っていない。むしろそれよりも増えている。自動回復能力がちゃんと働いているようだ。
しかし、再度変装できるほどではない。頑張れば足りるかもだけど無理はしない。明日の朝には満タンまで回復するだろうから、今日はゆっくり休もう。
とはいえ、まだ眠るような時間じゃない。
さて、どうしようか。
「んーと、やっぱりシャワーかな……」
私は、シャワーを浴びる事にした。
この宿屋は、客室にひとつずつトイレ兼洗面所兼シャワー室が付いている。
私はシャワー室に入る。
と言っても、体を綺麗にするためじゃない。
この体は汚れを浄化する能力があるらしく、私の体はほぼ常に綺麗な状態の液体だ。
なので、シャワーに入る目的はそれではなく、体の水分を補給するためだ。
シャワーの栓をひねる。
冷たいお水が私に降り注ぐ。
うん、気持ちいい。
ここでお湯のシャワーをお願いする場合は、別途薪代を支払わないといけない。
なので、10月下旬の今は、冷たい水で我慢する人が多い。
でもスライム娘の私には関係ない。
お水が熱かろうが冷たかろうが、私にとってはどちらも『おいしい水』だ。
お湯にはお湯の、冷たい水には冷たい水のおいしさがある。
私はおいしいお水を、心行くまで堪能する。
唯一気を付けるべきは排水溝だ。
液体の私の体は、ここから流れていってしまう危険性がある。
なので、そこへは近づかないように気を付ける。
一応、洗面所の小さな壺で蓋をしてはいるが、多分気休めにしかならないだろう。
まあ、シャワーから出た水は全て私の体が吸い込むので、排水溝から水が流れるどころか床に流れすらしないと、今気が付いたけど。
「はぁ……シャワー、美味しかった」
シャワーに対して『美味しい』という感想を述べるのは間違っているとは思う。
修行時代、クルスさんにそういう感想を述べて、何度もそうじゃないんだよなという表情をされた。
うんでもまあ、シャワーが美味しいと、本当にそう思うのだから仕方ない。
さて、この後何をしよう。
修行時代は、拠点の家の庭を散歩していた。
でもここではそうはいかない。
スライム娘の姿で外を歩くなんて以ての外だし、仮に人間のままだったとしても、女性の夜の一人歩きなんてできない。
雨の日には本を読んでいたけど、それも拠点の家の『でんき』というものがあっての話だ。
この宿のオイルランプでは文字を読むほどの明るさではない。
「あ、そうだ。練習しよう」
街中で自由にスライム娘の姿になれるのは、現状、この部屋の中だけなのだ。
スライム娘の『練習』をしようと思った。
修行時代、特に前半の頃、よくやっていた修行だ。
体を全身丸くして『硬化』させる。その練習だ。
硬化と言っても、とろとろからゼリー程度の固さになるだけなんだけど。
体を丸くしてから『硬化』を始める。徐々にではあるが、全身が固くなっていく。
手などの小さなパーツはごく短時間で出来るが、全身を硬化させるとなると、それなり時間がかかる。
修行時代、フルコンディションで25秒くらい。平時でだいたい30秒くらいだ。
硬化は、私の技『体当たり』の時に使う。体を硬くして敵にぶつけて戦う。
この時間が短くなればなるほど、体当たりの準備に出来る隙が短くなる。
なので、この硬化にかかる時間は短くなればなるほどいい。
クルスさん達との修行は終わったが、それはあくまで『レベル1として普通に戦える程度』になるための修行だ。
さらに強くなるためには、もっともっと頑張らないといけない。
この硬化時間を短くするための練習。
うん、それを頑張ろう。
体を硬化させ、その時間を計測する。
部屋の置時計の針で計りながら。
体を硬化させ終わったら、元のとろとろに戻し、再度硬化。これを繰り返す。
「……うん、こんなものかな」
それなりの時間が経過した。
久しぶりの反復練習だったので、硬化にかかる時間は短くはなっていない。
今後も練習が必要のようだ。
そろそろ寝る時間なので、私は這いずって、部屋にある大きな水がめの中に入った。
これは元々冒険者ギルドの水がめで、マリナさんがプレゼントしてくれたものだ。
何に使うのかおかみさんに不審がられながらも部屋に運んだ、私の寝床だ。
私は普通のベッドでは眠ることは出来ない。
スライム娘になって初めての夜、私はうっかりベッドに座り、その水分をシーツにたくさん吸われてしまった。その時の恐怖心は凄かった。
そのせいか、布製品に触れるのは不快感が強い。この姿にそれなり慣れた今でもかなり苦手意識がある。
それに対し、水がめの中は快適だ。
形状を作らなくていいので、一番楽だ。
私は〈視覚〉と〈聴覚〉をオフにする。
人間が眠る時のように。
そして私は、眠りに落ちていく。
人間の眠りと全く同じように。
『スライム娘』として生きる、本当の初日が無事終わった。
クルスさん、オパールさん、ビビアンさん。
私、今日1日、無事に過ごせました。
また明日から、スライム娘、頑張ります……ね……。
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