第2話

 城を出て向かう先は北の教会。


 ここが最後の修練の場です。


 聞くところによると、これまで屈強な男たちとともに武芸に励み、野心に燃える学徒たちと勉学を競い、一人部屋にこもって虚無を描き続けてきたような厳しい修業とは毛色が違うそうです。


 曰く、ここでの修行は最後の自分を捨て去ることが目的だとか。


 もはや自分などというものが残っているとは思えませんが、それでもこの試練を乗り越えることでわたしは新たな高みへと昇華するのです。


 期待も不安もありません。


 ただ成すべきことを成すばかりです。


 そんな気持ちで森を歩いていると、ふと気がつきました。


 この木や岩、さきほども見た覚えがあります。


 間違いありません、わたしは一度見聞きしたことを忘れることができない体質なのです。


 同じ森の中で同じ景色を見る。それはつまるところこういうことなのです。


 わたし、迷子になっています。


「困りました。ここはどこなのでしょう」


 どういうわけかわたしはよく道に迷います。


 町はもちろん、このギモーヴ王国の地理は完全に把握しているはずなのに迷います。


 ですがこれも神がわたしに不安や焦燥といった感情を植え付けようとしている試練なのだと思い、これまでも乗り越えてきました。


 今回もこれまで通り冷静に対処するだけなのです。


 まずは太陽の正確な位置を確認するために開けた場所を目指そうと思います。


 ではその場所はどの方角にあるのかというと、


「あら」


 そよ風に乗って花びらが舞ってきました。


 わたしはその花びらを手のひらに乗せ、気がつきます。


 風に乗って来たということは、あちらには花が咲いているはず。


 なおかつ木々に邪魔されない場所だからこそ風に吹かれたはず。


 つまり周囲に風を遮るものがない場所の可能性が高いのです。


 わたしは花びらが舞ってきた方向へ足を向けました。


 ほどなくして、一面に色とりどりの花が咲く丘へと出ました。


 予想通り、開けた場所です。


 わたしには、足元で咲き乱れる花を見ても特に思うところはありません。


 ただ目的の場所にたどり着くことができたことで、自分の中のタスクが一つ処理できただけなのです。


「おや」 


 丘の頂上に人影が見えました。


 子供のようです。このあたりにいるということは、最終目的地である教会の関係者である可能性が高いと思われます。


 太陽と時間から方角を割り出す予定でしたが、聞いた方が効率的だと思いわたしはその小さな人影に歩み寄りました。


「こんにちは」


 わたしが声をかけると、小さな背中がゆっくりと振り返りました。


 翡翠色の瞳と視線が交わり、ざっ、と風が吹きました。


 さらさらの金髪の上には黄色や白、薄桃色の花で作られた冠が乗っています。


 白く滑らかな肌にはぱっちりと大きな瞳がはまっており、絶妙に配置された鼻と、驚いたように半開きになった口元が十歳前後のあどけなさをふりまいています。


 七分袖の白いシャツの上にはこげ茶色のベスト。シャツの首元は金のコインのループタイで締められそこからまばゆいほど白い喉が小さな頭を支えています。


 花の冠を握ったまま行き場を失い中途半端なところで止まった華奢な腕。


 ベストと同じこげ茶色の半ズボンからのびる滑らかな足。


 足元には色とりどりの花畑。


 少年の背後には鬱蒼と茂る森。


 頭上にはイワシ雲が流れる青い空。


 まるで絵画にはめこまれたようなその光景を目の当たりにしたとたん、わたしは頭の中で鐘が鳴り響いたような気がして、くらりとその場にしゃがみました。


「こんにちは……って、どうしたんですか!?」


 少年が慌てた様子で駆け寄ってきます。


 動いています。少年が動いています。当たり前のことですが、なぜかその動きひとつひとつから目が離せません。


 眉を八の字に垂れ下げる少年の不安げな表情をみていると、呼吸が荒くなっていくのを感じます。


 心臓が肋骨を突き破らんという勢いで鳴っています。


 体温がみるみる上昇して発汗しています。


 明らかな体調の異常。そして同時に湧き上がってくるこの感情はいったいなんなのでしょうか。


「な、なんでもありません。少し立ち眩みがしただけです」


 なにかに動揺していることはたしかですが、耐えられないほどではありません。


 なにより動揺を表に出す必要はありません。


 明らかに自分の状態がおかしいと自覚しているのならば、意識して平常運転に切り替えればよいのです。


 そうすれば、いつのまにかなにも感じなくなるのです。


 いままでもそうでした。


 武芸の時も、勉学の時も、芸術の時も、辛くともただ耐えていればおのずと体が適応するのです。いいえ、適応させてきたのです。


 この未知の状態にもまた、わたしは適応するのです。


 やがては神さえも受け入れる運命にあるわたしです。


 適応できないことなどあってはならないのです。


「そうですか……あ、あの、ところでなんですけどっ!」


 少年が手に持っていた花の冠を胸の前で握りしめながらわたしを見つめてきます。


 しゃがんだ状態だと彼の方が少しだけ背が高いようです。


 わたしは青空を背負いながら一生懸命言葉を探っている少年を見上げました。


「なんでしょうか」

「あなたは、もしかして、聖女様なのでしょうか?」


 少年は恥ずかしそうに花の冠で顔の下半分を隠し、上目づかいで尋ねてきました。


 どくんっ、と心臓が一際強く脈打ちました。


「んっ……こ、こほん、ええ、そうです。わたしの名前はシルベット・プリマ・ヴェーラ。神の器プリマ・ドールに選ばれた聖女です」


 わたしは少年に左手の甲を見せるフリをして、自身の胸を押さえました。


 そうしなければ体が割れてしまいそうだったのです。


「その六芒星の痣は間違いなく聖女様の印! わあ! 本物なんですね!」


 少年は柔和に微笑んでわたしの手を掴みました。


 土の香りがするすべすべの小さな手が触れたとたん、またしても心臓が脈打ちます。


「っっっ!」

「あ、す、すいません! 馴れ馴れしいですよね!」


 耐えるあまり睨みつけてしまったのか、少年がぱっと手を離しいくらか胸の苦しみが和らぎました。


 内心、ほっとしながらわたしは少年に「かまいませんよ」と答えます。


 嘘です。本当はかなりギリギリです。いったいなにがギリギリなのかはわかりません。


 わたしの内側に渦巻くこの感情。いえ、この情動はいったいなんなのか。


 自己分析が終わる前に、わたしの頭の上になにかが置かれました。


 とても軽いなにか。それが花の冠であると気づいたのは、頭上から降り注ぐ甘い香りによってでした。


「これ、聖女様のために作ったんです」

「わたしの、ために?」


 どっどっどっ、と心臓が暴れています。


「僕の名前はアーサー・パラディン。教会で暮らす孤児です」

「教会の……孤児……?」


 わたしが問うと、アーサーは後ろ手ににっこりと微笑みました。


「ようこそいらっしゃいました、聖女様! 僕らはあなたがくるのをずっとずっと待ちわびておりました! あなたと出会えた今日という日に、最大限の感謝を!」


 なんなのでしょうかこの気持ちは。


 全身の産毛を毛筆でなでられるような、体の内側を松明であぶられているような、頭の先から足の爪先まで稲妻が駆け抜けていくような、そんな衝撃。


 この感情を端的にあらわすのならば、そう、これは、この感情は、まさに、ずっっっきゅうううううううううううううん!!!!!!! といったところでしょうか。


「ずきゅん……」


 わたしは心の中で言語化できない想いを叫び、そしてゆっくりと両手で胸を押さえました。押さえねば抑えきれないなにかが噴出してしまいそうだったのです。


「いまなにかいいました? 聖女様?」


 少しだけ漏れてしまった漏れてはいけないなにかにアーサーも反応してしまいました。


 わたしはすぐに咳ばらいをして「教会まで案内していただけますか、アーサー」といいました。


「聖女様のお力になれるのであればなんでもいたします! さあ、行きましょう!」


 アーサーはそういってわたしの手を握りひっぱります。


 か弱いです。


 小さいです。


 とっても白いです。


 そんな少年アーサーに手を引かれながら森を歩きます。


 いましがた心の中で叫んだことで少しだけなにかが発散できたのか、はたまたこの体調不良に慣れてきたのか、徐々に胸騒ぎが落ち着いてきました。


「この森にはなんでもあるんですよ。美味しい果実に奇麗なお花、もちろん動物もいます」

「豊かな森なのですね」

「そうなんです。でも、森の北側。山脈の麓には行っちゃ駄目なんですよ!」

「なぜですか?」

「そこには魔女が住んでいるんです! 魔女は万病を治す薬をもっているといわれているんですが、子供が大好物で僕らなんてぱっくりたべられちゃうって神父様がいってました!」


 アーサーは肩を震わせて話します。


 その様子を見て思わず彼の頭に手を伸ばしかけましたが、寸でのところで思いとどまりました。


 なぜ頭を撫でる必要があるのかわからなかったからです。


 恐らくこの話は神父様が子供たちに危険な場所に向かわないようにするための躾話。


 わざわざアーサーの恐怖心を和らげる必要なんてないのです。


 なのに、なぜわたしはいまアーサーの頭を撫でようとしたのでしょうか。


 わたしは自分の右手を見つめながら頭の上に疑問符を浮かべ、森の中を歩きました。

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