第一章 枝垂れ桜の庭で
塔子
年に一回の祇園甲部でカレーの日だった。だから日付だけは間違いない。
京都の花街に関する都市伝説は多いが、その中でも「舞妓ちゃんに里心がつくさかい、カレーは食べさせへん」というものがある。塔子の家は祇園甲部の
そんな祇園甲部には全ての舞妓ちゃんがカレーを食べる日が存在する。それが3月28日なのだ。
毎年、4月は1ヶ月間町を挙げての大イベント祇園甲部〝都をどり〟の公演が行われる。もう100年以上続く京都の春の風物詩だ。1日3回公演。休みなし。そのハードスケジュールを鼓舞するように、花見小路入り口の角にあるお茶屋さん〝一力茶屋〟さんがカレーを作って総稽古のお昼ご飯に差し入れてくれるのだ。塔子の母が舞妓の頃には既に恒例だったので少なくとも30年以上、先代の当主時代からの伝統行事らしかった。
「塔子ちゃん育ち盛りなんやから、遠慮せんと食べよし!おかわりしいや」
中学の制服のままで舞妓ちゃんたちと食べる塔子に、組合のスタッフが優しく声をかける。
塔子の祖母も元芸妓、塔子の母も元芸妓で置屋のおかあさん。祇園町はお茶屋や組合、歌舞練場に内線電話が張り巡らされている。祇園町全体で大きな一つの家という感覚である。今や見知らぬ外国人観光客が行き交う世界的な観光地でありつつも、花街の住人は親戚のような絆で結ばれており、小さな村のような不思議な連帯感があった。
そんな村には、全国から舞妓になりたくて毎年15歳の仕込みさんたちが〝娘〟としてやってくる。養女として各置屋に住み込み、塔子の母を〝おかあさん〟と呼ぶ。今は置屋と、実際にお客さんを持てなすお茶屋を兼ねている家が殆どだが、塔子の家は珍しく昔ながら置屋のみの営業を続けていた。
(実家に帰ったら本物の親がいる他人が、私のママをとらなくてもいいじゃない。私にはママしかいないのに)
父親は生まれた時からいないのが当たり前で気にならなかったが、母親を共有するような感覚には慣れない。置屋に育っていても塔子は常に家で疎外感を感じていた。
「代々芸妓の家系なんて羨ましい。塔子ちゃんはいつ仕込みに入るん?」花街に憧れて来た子たちは必ずそう聞く。お稽古も小さい時から仕込まれてきたが、正直塔子は舞妓になりたいと思っていなかった。
朝からお稽古をし、帰ってきたら白塗りし、男衆さんにだらりの帯着付けてもらって、観光客に無断でパシャパシャ写真を撮られながら早足でテコテコとお座敷に向かう。知らないおじさん達に愛想笑いしてお酌したり、夜中まで働く。それでも9割の子は芸妓になれない。20を越える前に実家に送り返される。
そんな想いをして花街で生き残ることに何の価値があるんだろう。
「塔子はあかんねえ、媚びがない。母親とちごて、やる気もない」
お茶席の展示品を隔てる幕裏で、帰るまでの時間を潰そうとしていた塔子の耳に、自分の名前が突然入ってきた。
「せやけど、ああゆう子は化けるえ」
「そらあんた、勝つ春を重ねて見てるだけやろ。顔はよお似とるけど勝つ春の負けん気がないし無理ちゃうか、今時の子やからね」
勝つ春は、塔子の母のお姉さん芸妓にあたる人だ。花街では店出しの際に血の繋がりがない妹と盃をかわし、姉から一字譲りうけて、お客さんに「うちの妹どす」と紹介する。つまり、塔子の母である〝初つ春〟と〝勝つ春〟は血の繋がりもないし本当の姉妹でもない。
(私が似ているのが勝つ春なの?)
塔子は母の初つ春には確かにちっとも似ていなかった。気にしたことがないわけではない。でも知らない父似なのかなと曖昧な納得をしていたのだ。
「立派な芸妓になってもらわんと。引き取った初つ春がいたたまれへんわ。芸妓で引いてくれる話沢山あったのに、あんな若くして〝おかあさん〟になったん全部あの子の為やんか」
(これは三味線の
塔子が妙に冷静な分析をしてしまうのは、現実逃避だった。
ツンと鼻の奥が痛くなった塔子は、泣かないように気をつけて、誰にも気づかれぬように静かに紅白の段幕から渡り廊下をぬけて庭へ向かった。
中庭には結界が張ってある。結界といっても、ただの竹の柵だ。来客に立ち入り禁止と順路を示すためのもので、陰陽師や妖怪とは関係ない。その柵の脇を当たり前にすり抜ける。
(まだ、泣いちゃだめ。人がいない場所にいかなきゃ)
ただ下を向いて進む。
今年は桜の開花が早い。遅咲きの枝垂れ桜すら、もう咲いてる。枝垂れ桜に導かれ進んでいく。劇場側は改装工事を終えたばかりで、塔子も7年ぶりに立ち入る場所だった。7年前の記憶は殆ど無い。ただ闇雲に奥へ向かった。
小高い丘の先。不思議な高さに菊の紋が入っている扉が見える。泣くために奥まで来たのに、タイミングを失ってしまった。もう涙は出そうになかった。
「珍しいね、迷子かな」
ふわりと白檀の香が薫った。
振り返ると枝垂れ桜の袂に男の人がいた。
「大丈夫?顔色が悪いよ」
いつの間にかすぐ側に来ている。美しい。だが、塔子が動けないのは見惚れていたからではない。怖かったのだ。
「初つ山の塔子です。ごめんなさい、奥まで入ってきてしまって…」
「その扉はね
塔子ね言葉には全く興味ないかのように、扉の方を見ながら彼は淡々と話を続けた。聞き慣れない言葉に戸惑う。
「あの扉の先は
(崇徳上皇も阿波内侍も知らないけれど、気まずい場所に来てしまったかもしれない)
「
何も答えない塔子に構わず、ペラペラと話しつづけていた男はようやく塔子に視線を戻した。射抜かれたようにビクッと反応して塔子は反射的に頭を下げる。
「ごめんなさい!そんな場所だって知らなくて」
「謝らなくていいよ、ここは禁足地じゃない。あの扉の先は裏の通りから普通にお参りもできるし、怖がらなくてもいいよ」
彼は目を細めて微笑む。微笑みと共に周りの桜の蕾が開いたように見えた。
凄まじく美しく、口調も穏やかなのに、怖い。得体が知れない人ならざるもの。そんな異形の美が男にはあった。
「歌舞練場に戻ります!」
塔子は会釈をして、足早に室内へ向かう。中庭を隔てるガラス戸をあけると、おかあさん方の談笑が聞こえる。尻っぱしょりの黒い着物と雪駄で走り回る舞台のおじさんたちと華やいだ声の舞妓ちゃんたちがパタパタ行き交う姿に心底ほっとした。
「塔子ちゃん、おあがりやす」と、初つ山の最年少舞妓ちゃん〝まめ春〟ちゃんに薯蕷饅頭を出される。毎年お茶席で提供されるとらやさんの桜の意匠のお饅頭だ。
ほっとした塔子は食べようと触れて、初めて指先が冷え切っていることに気づいた。
(寒いな…早く帰りたい。お風呂に入って今日の出来事をしよう)
塔子はお薄を飲もうと手を伸ばすけど、震えが止まらない。上手に抹茶茶碗も持てない。
まめ春ちゃんは心配そうに塔子の顔を覗きこむ。おもむろに白い手を塔子の額に当てる。
「わあ、すごい熱やわあ」
甲高い声が随分遠く聞こえ、塔子は意識を手放した。
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