第2話 正体
悠人は自宅へと足を進めていた。
両親は今日年に離婚し、どちらの親からも引き取るのを嫌がられた彼は、戸籍上母親が保護責任者という形でワンルームマンションで一人暮らしをしている。
学費などは母親が出しているが、家にいないのなら、帰っても問題はない。
それよりも、と彼は思った。
先程の少女は何だったのか。
見覚えがあるような気もしたが、あったところでそう親しくはなかったのだろう、全く思い出すことができない。その上何より、姿を消したあれ何なのか。
彼は自身の首をさする。
確かに痛みはあったし、今でも首に違和感がある。赤くもなっている。
——夢や妄想の類ではない?
ならば尚更、あれは何なのか。
幽霊、怪異? そんな
こうなってくると……。
悠人は自身の精神を疑った。もう「やばい」ところまで来てるんじゃないか、と。
悲しいことにそれが最も有力なのかもしれない。
実は彼女が幻覚で、首を絞めたのもベンチから落ちたのも、頭では、目では、彼女がやった物に思えていたが、実は自分でやったことなのではないか、とそういうことだ。
「……それが現実的だろ」
悠人は歩きながらに一人で呟いた。
それはまるで自分に言い聞かせるため、自分を説得するために。
そう、彼も頭の片隅ではそんなことは非現実的だと分かっているはずだ。幻覚、精神異常、そんな物が自分にないことくらい。あったところであんなものは見えないことくらい。
しかし彼は、どこかで怖がっていた。
あれの正体を知ることを。
否。
あの少女について考えることを。
直感的に、恐れていたのだ。
彼女を知ることを。
だから彼はあの少女についてはそこまでの思考で手を打った。
そういうことにしよう。
10分程度だろうか。
その程度歩いて、彼は非膣のマンションの前で足を止めた。
正方形のビルの側面に通路とドアを付けたような形の、いたってよくあるワンルームマンション。
悠人は階段で3階まで上がると、通路を進み、一番奥の312号室の扉のドアノブに手をかけると、扉を開いて中に入った。
越してきた頃は鍵を閉めていたが、どうせ学生一人の家に強盗に入るようなやつはいない。いや、正確には入られたところで金も何もあったもんじゃない。取りたいものがあれば取って行けばいい。
トイレ1つと4畳の部屋1つ、それとその部屋と玄関とをつなぐ廊下のみの構造のこのマンション。彼は部屋へと足を進めてブレザーを脱ぎ捨てた。
ズボン、ワイシャツも同様に脱ぎ捨てて、部屋の隅にあった白い長袖と黒のズボンに着替え終えると、彼は真っ先に部屋の角にある机の前に腰掛けた。
「あ……」
ハッとしたように呟く。
そして思う。
この癖は速いとこ直さないとな、と。
悠人は机に両手をついて立ち上がるが、同時にその反動で机の端に大量に積まれていた原稿用紙が机いっぱいに崩れ落ちた。
ああ、これも速く捨てるべきなんだろうな。
原稿用紙には、どれもびっしりと文章が詰められている。
——確か小学5年生の頃だったか、何も思い浮かばなくなって、小説を書くことをやめたのは。
その頃のくせで、面白いことや不思議に思うことがあった日には家に帰ると必ず机の前に腰を下ろしてしまう。
もうやめたはずなのに。
何もアイディアが出ずに苦しむ日々は、もう嫌だろう? もう、あのころには戻らないと、そう決めたのに。
彼は原稿用紙から目を背けた。
どうもあの原稿用紙たちを見ると、
だから彼は、今も、その前も、
そうすれば、知らないフリができるから。今の自分が普通だと思えるから。
「クソッ……」
吐き捨てて、彼は部屋の隅に座り込んだ。
昨日もろくに寝ていないせいか、眠気が素早く彼を襲う。
視界がぼやけてきた……。
ふふふ、と楽し気な笑い声が響く。
白い視界の中で、誰かがこちらへ小さな手を伸ばしたのが見えた。顔は白くとんでいてわからない。
声が聞こえた。
『行こう!』
僕は思わず返事をした。
「うん!」
声の相手は僕の小さな手を掴むと走り出す。
僕もつられて足を動かす——。
意識が覚醒した。
目を開くと、そこはいつもの部屋である。
端には制服が脱ぎ捨ててあり、机の上には原稿用紙が散らばっている、埃っぽい部屋。
彼はすぐに理解した。
(夢、か……)
はっきりとは覚えていないが、小さい頃の夢を見たような気がする。
まぁそれもはっきりとはしないのだが。
悠人が壁に吊るした時計に目をやると、長い針と短い針がちょうど12で重なったあたりだった。
彼のお腹は音を立てる。
当然のことだ、昨日の夜と今日の朝、どちらも節約のためにと水だけで済ませている。お腹がすくに決まっていた。
彼は床に放られていた小さな財布を拾うとチャックを開けて中身を確認する。
12日にして、今月の残りの金はおよそ10000。
自力で調理をする力もスペースもない彼にとっては、この金額は若干心もとない数値である。
だがまあ、今月贈られてきた金と見比べてみればよく余っている方だ。
悠人はそれを持ち家を出た。
家を出た、というのはたいそうな表現ではあるが、単に近くのコンビニエンスストアへとお昼を買うべく赴いたのだ。
入り口を入ってすぐ、彼は左に曲がって進む。
窓際に並ぶ漫画本の羅列を横目に流すつつ店内の最奥で足を止めると、クーラーボックス内の弁当を一つ手に取りレジへ向かった。
会計を済ませガラス張りの自動ドアへと足を向けたその時だった。
「許さない……」
小さな声が鼓膜を震わせた。
悠人の肌に汗が滲み、筋肉が強張るのを感じた。
悠人は引き攣った顔をそのままに、レジから左方向の直線上にある自動ドアへとゆくっくりと目を向ける。
同時、自動ドアの開く音と共に1人の少女が入店する。
月明かりよりも白い肌に、黒い服の色さえも反射する美しい白銀の髪の少女。
少女は貫くような目つきでは自身の碧眼をこちらへ向けた。
嫌な予感と彼女の纏う空気に気押され、2歩ほど後退りした。
自動ドアから数歩分離れたところで足を止めている彼女は、そんな悠人を強く睨みながらも右手を胸の高さのあたりまで持ち上げる。
嫌な予感。悠人の心情といえばその一言に尽きた。
そもそも、今朝消えたはずである彼女がなぜ今ここにいるのか、今の彼はそんな疑問もうかばない程に現状に恐怖を覚えていた。
今朝の一件以降、彼も学んでいるのだ。下手すれば、僕を殺すためになら何でもするのではないか、と。
青年は今にも逃げ出したかった。それをしないのは、単にドアの前に彼女が立っているからだ。
少女は胸の高さまで上げた右手の指を弾いた。
パチンと言う乾いた音が響き渡る。
刹那。
その音を追うようにして、パリンと甲高い音が響き、彼女の背後で閉まりきっていたドアのガラスが突如破裂するかのように割れた。
ガラスの破片が星屑のようにあたりに飛び散りドア周辺の床を埋め尽くす。
「なんなんだよ……お前」
彼の声は少女には届かず、いや届いていたのかもしれないがそれらしい反応はなく、彼女はその場で姿勢を低くすると、床に落ちていた手のひらサイズで鋭利な形状をした破片を拾い上げて両手で持った。
鋭い瞳と悠人の押され気味の視線が重なる。
その瞬間、少女はその細い脚を前へと出した。
素早い動きで距離がつまる。
少女は両手に持ったガラスの破片を振り上げた。
彼は一度少女を突き飛ばしたが、少女の動きが止まることはなく、再びガラスを振り上げる。
瞬間、彼女の動きはピタリと止まった。
それを見て、彼もたじろぐ自身の体を静止する。
ーーまただ。
動きを止めた彼女の瞳からは生気が失われ、体が砂嵐のように揺らぐ。
そして彼女は、霧散するように消え去った。
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