ストーリー少女

さゆき

第1話 何もない青年

 青年——、矢萩悠人やはぎはるとは赤信号で足を止めると、空を覆ったビルの網目から曇天を眺めた。

 鈍色の空は重く、今にも降り出しそうな雨は依然として降ってはいない。

 悠人は、そんな空を眺めていた。

 特段、何か考えているわけではない。

 否。

 正確には、考えることを探していた。

 16歳の彼の周りは、ゲーム・音楽・アニメ、そんな話題であふれていたが、彼は何一つ持っていなかった。趣味、夢、そういったものを。

 毎日を生きるために生きている——、言わば死なずして息をしている。そんな状態。

 彼は数秒間そうしてその場に立っていたが、やがて制服のポケットに両手を入れると、くるりと踵を返し、180度進行方向を変更した。

 ——別に、学校へ行く理由もない。

 友人は皆、医者や教師といった大そうな夢を持ってそれのために学びを得て、努力を続けているが、彼にはその夢がなかった。

 目標もないのに続ける努力程むなしいものは存在しない。

 それを自身に言い聞かせる言い訳とし、彼は、信号とは、学校とは、真逆の方向へと足を進め始めた。

 行く宛なんてない。

 それは、自身の人生だってそうだ。

 行く宛なんてない。

 行き交うスーツ姿の大人は、悠人を訝しむような目で見て、すれ違う同じ制服の生徒たちはもはや彼に目を向けようともしなかった。

 それでも悠人は、コンクリートの地面を踏んで、速度を緩めることなくビル街を進んでいく。

 そして彼がたどり着いたのはこのビル街の唯一のオアシスともいえる、一角の公園だった。

 公園内に足を踏み入れると、悠人は公園の中心部分にある噴水を囲うように設置されているベンチへ目を移す。

 が、驚くべきことに、彼から見ることのできる3つベンチには全て大人が座っている。目の周りがクマだらけでやせこけた中年、メイクをする三十路、どの人もベンチの中心に座っている。

 本来2、3人は座ることのできるベンチだが、これでは一人専用だ。

 悠人はまだ見えていない、噴水の反対側にあるベンチを見るべく、噴水を半周し、そこにあったベンチへ目をやった。

 そこには一人の少女が座っていた。少女——、と言っても年齢はおそらく彼とさほど変わらない16歳前後だろう。

 両足をそろえ、その膝の上にちょこんと両手を乗せた彼女は、瞳を閉じている。

 寝ている——、のだろう。

 彼の視線は彼女に捕まる。

 彼は、彼女の月明かりよりも透き通るような白い肌や、黒いぶかぶかのパーカーを反射し、灰色に輝く彼女の白銀の長髪に強く惹かれた、引かれた。

 何故かはわからない。

 確かに容姿は整っているし、彼女の純粋なその寝顔も無垢で美しい。

 だがそうではない。意識していなくとも、不思議と目を引かれる。いつの間にか彼女を見ているような、そんな感覚。

 ——これが一目惚れ……っていうのかな。

 今まで女性の容姿に目を引かれるような経験がない彼には、この惹かれる引かれる感覚というのが果たして容姿に対するそれなのか、はたまたそうでないのか、全く見当がつかなかった。

 ただ言えるのは、他の人とは何か違うこと。

 他にもベンチに座っている人間はいたし、範囲を広くすれば今まで目に入れた人間というのは数えきれない程膨大な数だろう。

 しかしそれらとは違う。一線を画すほどの違いと言っても過言ではない。

 青年は、少女が左端に座ったベンチの右端に腰を下ろした。

 他のベンチが空いていない、というのを言い訳としておこう。

 悠人は少女の横顔に目を移す。

 そして思う。

 なぜこんなにも彼女に目を奪われるのだろう、と。

 自分でも理解できない。なぜにここまで異常なほど彼女に惹かれるのだろうか。

 容姿……?

 否。

 何か違う。

 ならばなぜ?

 考えた末、彼がたどり着いたのは、

 ——僕は、どこかで彼女を……?

 それだった。

 気が付けば、もう、他のベンチは空いている。

 しかし彼自身はそれに気が付いていない。それほど彼女に目を引かれている。

 彼女以外が視界に入ってこない程度には。

 ふと、彼は自身の右手を少女の頬へと伸ばした。

 完全に無意識だ。脳にそんな指令を出した覚えはない。

 彼の指が少女の頬に触れる、そう思った時だった。

 彼女の碧眼が、パッと開いた。

 それはまるで青の薔薇が咲き誇ったかのような光景で、彼は彼女の横顔に釘付けになった。

 と、少女は何を思ったか、目を覚ますなり悠人の方へ顔を動かした。

 悠人は思わず右手を下げる。

 これも意識的、問いよりは反射に近いと言える。

 が、次の瞬間。

 少女は飛びつくようにして少年との距離を詰めると、彼の首元に両手をやった。

 悠人の体は押される勢いのままに地面に落ち、尻もちを搗く。

 端に座っていたのが悪かった。

 彼女はそのまま両腕に力を入れ、悠人の首を絞めつけつつ、体重を乗せて彼の上半身を地面に落とす。

「あ゛……!」

 思わず小さく声を漏らした悠人に、少女は言葉を吐く。

「許さない……!!」

 悠人にはこれが何を意味しているのか理解できなかった。

 手を伸ばしたことがそこまで重かっただろうか……? それともほかに何かあるのか?

 少女は悠人の上に馬乗りになると、体重をかけて彼の首を圧迫した。

 まずい。

 思考もうまく定まらなくなってきていることを自覚した彼は、自身の両手で首を押さえつけているの彼女の手首を強くつかんで押し戻す。

 若干、首の圧迫が緩む。

 ところが彼女の力は同年代の少女とは到底思えないほど強く、彼の腕力と拮抗した。

 力の押し合いの中、彼は声を出す。

「僕が何をしたんだよ!」

 少女は怒りの表情を浮かべた。

 同時、彼女の目を見た彼の脳内を何かがパラパラとよぎる。

「わからないの?」

 青年の腕が押し戻される。

「わかるわけないだろ……! 腕をどけろよ!」

 悠人は少女の腕を押し返す。

「急に襲い掛かって、お前なんなんだよ!」

 少女は何も事得ない。それどころか次第に力が弱まっていくのを感じる。

 悠人は彼女の腕を完全に解いてから言葉を続けた。

「なんか言えよ!!」

 その時。

 彼女の体が、まるでブラウン管テレビの砂嵐のようにザザッと一瞬原型を崩し、元に戻った。

「あ……?」

 彼は一瞬、自身の瞳がおかしいのかと勘違いした。

 だがそんなことはなく、彼女の体は次第に砂嵐のように左右に揺れ、原型を崩していく。

「は……?」

 青年は意味の分からない現状に思わず声を漏らす。

 と、次の時には、少女の体は霧散するがごとく姿を消した。


 残されたのは地面に横たわった悠人と、押さえつけられて赤くなった首である。

 彼は腰を上げつつ呟く。

「なんだよ、今の……?」

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