8月ー葉月ー

第17話 花嫁修業

 夏休みに入ってから良子は米山家の本邸で寝泊まりしていた。結婚後は米山家で暮らすことになるため、一刻も早くここでの生活に慣れるためだ。花嫁修業といったところだろう。


 教えるのは米山幸子。優の母親で、良子と同じく米山家の外部から入ってきた人間である。いつも着物を着ていて、緊張した冷たい顔をしている。


 修業は料理から始まった。まず言われたのは、今までのやり方はすべて忘れろということだ。


「あの家にいたのなら一通り家事はできるわね」


「はい」


「じゃあそれは忘れなさい」


「……え、どういうことですか?」


「家事のやり方、その他全ての物、米山家のやり方を仕込みます。期間は夏休みが終わるまで。それまでにすべてを覚えなさい」


 幸子は無表情で淡々と伝えた。その目には光がなく抑圧されて生きてきたことがうかがえる。


 幸子の教育は厳しいものだった。間違えれば容赦なく竹の物差しが飛んできて良子の手を打つ。手の甲は真っ赤に腫れあがり何もしなくても痛いのにその上に傷が増えてくる。


「だから違うって言っているでしょう!? 貴方が9月までに出来るようにならないとお義母様に嫌味を言われるのは私なのよ!」


 冷たい無表情を見せると思っていたら、教育が始まった途端ヒステリックに怒る。その焦りは良子にも伝わるものだった。幸子の言うお義母様は優の祖母である。きっと圧をかけられているのだろう。


「あなたの責任でもあるでしょう。何も言えないの!?」


「申し訳……ありません」


「まったく、次。今日はお裁縫の復習よ」


 幸子を見ていると、良子は実家の母を思い出す。いつも父や祖父母の顔色を窺って、窮屈そうに暮らしていた母。幸子も良子の母もヒエラルキーを家庭内で作られ、その最下層に蹴落とされて、誰よりも頭を低くして生きてきた人たちだ。


 いずれ自分も学校のような場所にも行けず、ずっと家とそれに関係する場所にだけ外出が許されるような、閉鎖的な生活を送らなければいけないことを強要されるのだ。そのカウントダウンは既に始まっている。


(せっかくなら、空の飛び方を教えてもらえばよかったかな)


 まだ知り合って間もない頃に言われた言葉を良子は忘れていなかったのだ。だが自分ができるのはせいぜい飛び降りることくらいだろう。


 そんなことを考えている暇があれば一刻も早く米山家の家事を覚えなければ。日数を重ねているのにいまだ手の甲の傷は減ることがない。家事ができないわけではないが、何年も続けてきた自分の家のやり方がどうしても出てしまうのだ。


 今度こそ米山家のやり方になじまなければ。そう考えれば考えるほど気が重くなるが、逃げ場のない良子にある選択肢は「やる」の一択しかない。


 

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