第38話

「こないだ体調崩したっていうから、見に来たんだ。なんだ。元気そうじゃないか」  


 お父さんがそう言う。車には新しい家族たちが乗っているらしい。


「あ、うん……大丈夫だったよ。見に来てくれてありがとう」


 栗栖くるすさんの家に夕飯を食べに行こうと思っていたのに、土曜の夕方、急にやって来た。もう少しで栗栖さんがムーちゃんと散歩で通る時間になってしまう。なんてタイミング悪いんだろうか……。


「いや、近くの温泉旅館に行く予定だったから、そのついでにな」


「そうなんだ」


「何か困ってることはないか?」


「ないよ。大丈夫だよ」


 他に喋ることなんてなかった。シンと話の間ができる。お父さんはそうかと立ち上がる。さっさと行きたい気持ちがわかる。出したお茶にも手を付けずに玄関へと行く。


「あ……見送るよ」


 私はそう言って、玄関から出た。車の中には久しぶりに見たお父さんの新しい家族がいた。私と同じくらいの女の子に小学校高学年の男の子。中年の優しそうで家庭的な女性。


「こんにちは。桜音おとちゃん」


 ニッコリとお父さんの新しい奥さんは優しそうな表情をし、笑いかけてきた。


「こんにちは」


 ペコッと私は頭を下げる。奥さんは娘を指差す。


「桜音ちゃん、大学行かないで、就職するんですって?いいの?進学校に通ってて、けっこう成績も良いんだって、お父さん前に自慢してたわよ?」


 ……そんなこと言っていたんだ。私はニッコリと笑い返す。


「はい。早く自立したいので……」


「しっかりしてるのね!でも、助かったわぁ。うちの娘が短大に行きたいって言ってて、あなたが行くなら、行けなかったもの」


 ……あ、そういうことだったんだとこの瞬間、理解した。


「新しい娘には大学を行かせる学費は出せるのに私には出せないの?私のこと、一番大切だって言っていた娘じゃなくなったんだよね」


 ………なんてことは言わなかったけど、ドロドロとした黒い汚い物が地面から這い上がってきて、気持ち悪い物が、自分にくっついている気がした。


「チェックインの時間になっちゃう!行こうよ!」


 女の子がそう言うとお父さんが、あ、そうだなと時間を思い出したように動き出す。


 じゃあねと新しい奥さんは嫌な笑い方をして手を振った。男の子はずっとゲームをしていて、私のことなど目に入っていないようだ。


「こんにちは」


 窓を閉めようとしたお父さんが弾かれたようにその挨拶で顔をあげた。私も思わずその方向を見た。ワン!とムーちゃんが私を見て、撫でて!と言う。


「え?君は………?」


 人が良さそうな笑みを浮かべて、近寄ってきた。く、栗栖さん!?私は焦る。


「栗栖農園の栗栖です」


 今……たまきって名乗った!?


「桜音ちゃんとは同じ学校なんです。余計なことかもしれないと思ったんですが、確かに彼女は成績もいいし、大学を出さないっていうのはもったいないかもしれないですね」


 それに……と続ける。


の僕が言うのもなんですけど、こんな一人で頑張る子はなかなかいないし、しっかりしてるようにみえるかもしれないけど……ちゃんとまだ……見てあげないとダメです」


 高校生!?そして真顔でお父さんにそう言う。


「高校生にそんなこと言われなくてもわかってる!」


 違います。26歳です!27歳に今年なるはず……私はそう思った。


「行くぞ!」


 お父さんは窓を閉めて、怒った顔で車を走らせた。私は車が行ってしまうと、思わずクスクス笑ってしまう。足元の黒い物が霧散した。


 良かったねって女の子には思えなかった。私のものだったのに返してよ!あなたたちのせいじゃないの?と怒鳴り散らしたかった。それが言葉にならなくて、ドロっとした黒い物が私の体に張り付いた。嫉妬心。それが消えた。


「ごめん、我慢できなかった」


「栗栖さん、いつの間に環くんになったんですか?フフフ。高校生の栗栖さんですね」


 私の笑いが止まらなくて、栗栖さんもアハハッと笑い出す。


「童顔と身長の低さを生まれて初めて感謝したよ。環に無断で名前を借りたのは悪かったけど、10歳も年上の男が桜音ちゃんの周りをうろついてたら、お父さんが心配するだろうし……」


「心配……しないと思います。でも心づかいありがとうございます。私は栗栖さんが10歳年上でも高校生でも………」


 ……好きです。危うくそう言いかけた。


「……関係ありません。私にとって、栗栖さんは栗栖さんなんです」


 少し、目を見開いて、私をじっと見た。それから優しい顔で微笑む。私の大好きな栗栖さんの笑顔だった。


「なんか……嬉しいよ。ありがとう」


 夕飯食べに行こうよと栗栖さんは言い、ムーちゃんと栗栖さんと私は一緒に歩いた。赤とんぼが田んぼに舞う、秋の夕焼けの中を。

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