第10話

「夏休みになっちゃうと、朝、桜音おとちゃんに会えないんだなぁ」


 夏休みに入る少し前に栗栖くるすさんは残念そうにそう言った。……残念に思ってくれるの?彼女いるんでしょう?って言葉が出そうになって危うく飲み込む。


 朝から蝉の声が駅にも聞こえてきて、今日も暑くなりそうだった。


「熱中症、栗栖さん気をつけてください。ムーちゃんも……」


 私はヨシヨシと足に絡みつくくらいムーちゃんが撫でて欲しがっていたので、触れる。相変わらず、ムーちゃんは可愛くて、私の手にもスリスリしてくる。


 このくらい、私も大好きって表現できたら良いのになぁ。可愛げが少しは出るだろうか?


「ありがとう。桜音ちゃんも気をつけて!いってらっしゃい!」


「今日は個人面談なので早く学校が終わるんです」


「へえ!早く終わるのいいねー。僕は夏野菜と格闘してくるよー」  


 暑いなーとブツブツ言う割に、嫌そうじゃない栗栖さんに頑張ってくださいと私は笑う。手を振り合った。


 今日は母が個人面談に来た。担任と私と母の三人で、進路の話をする。夏の外は明るすぎて、室内が暗く感じる。校庭から蝉の音と野球部の声がする。時折混じる吹奏楽部の管楽器の音。


 サマースーツに身を包み、化粧をし、綺麗にパーマをかけた母は私や父といるときよりも少し派手になり、美しかった。


新居あらいさんの成績は今のところ問題なく希望の大学に行けると思いますよ。前半体調があまり良くなかったようですが、きちんと勉強もしてますし、授業にもついてきてますし、真面目に学校生活を送ってると思います」


 担任の先生の話に母が、あら?と嬉しそうに笑った。


「でもこの子、勉強嫌いでしょう?たびたび学校に遅刻したり行かなかったり……だから就職の方を考えているんですよ」


「え?」


 私は一度もそんなことを母と相談したことも話し合ったこともなかった。行きたい学校のことは話していたけれど、就職の話は聞かれたことがなかった。担任の先生もびっくりしたように目を丸くした。


「でも最近はきちんと来てますし、新居さんの成績、もったいないですよ」


「そう言って頂けて、私も桜音も嬉しいですけど、やはり嫌いなことを続けさせるのは……ねぇ?桜音も就職でいいわよね?」


 母は美しい人だが、昔から、さっさと物事を一人で決めてしまう人だった。父にも私にも聞かずに……決断がなかなかできない私には羨ましい性格だったけど、こんな時まで……。


 ぐっと私は制服のスカートを握りしめる。しばらく、ほんの少しだけ時間がかかった。だけど私は笑えた。笑って答えられた。


「うん。大丈夫」


 学校に行けなかったのは、ほんとに体調が悪かったからだ。勉強や学校が嫌いだったわけじゃない。少しお腹が痛くなってきた。


「新居さんは本当にそれでいいんですか?今のところ、問題なく志望する学校に行けるけれども……」


 担任の先生が私にもう一度確認した。進路調査票に書かれた大学の名前がチラリと見える。それは私の字で書かれている。


 大丈夫。笑える。まだ笑顔が作れる。


「はい。大丈夫です。就職します」


 そうニッコリと笑って私は先生と母に言った。うまく隠せている。私は心を隠すことは得意。誰にも気づかれない。……栗栖さん以外は。


 校庭に停めてある母の車まで一緒に行き、私は見送る。夏の陽射しはジリジリと容赦なく照りつける。


「お母さんの新しい旦那さんはあなたの大学のお金を払うと言ってくれてるけど、迷惑かけちゃだめなのよ。わかってくれるわよね?」


「うん。わかってる。大丈夫。私も……みんなに迷惑かけないように、早く独り立ちしたいから、就職する」


「そうしてくれると助かるわ。お父さんには新しくあちらの子どもがいるから、桜音の大学のお金まで出す余裕が無いって言ってるの。大学に出してあげたい気持ちはあるんだけどね。でもあなたも苦手な学校や勉強を続けるよりいいでしょう」

 

「あのね……お母さん、私……勉強や学校が嫌いなわけじゃなくて……」


 それだけは言おうと思った。体調不良を言い訳に、ズルをしていたわけじゃないもの。


「話を聞いてあげたいんだけど、お母さんも忙しいの。今から予定があるのよ。なにか話したいことがあるなら、夜、聞くから電話してちょうだい」


 母は私の言葉を遮るようにそう言って、車に乗り込むと、エンジンをかけて、こちらを見ることなく行ってしまった。


 排気ガスの臭いがする中、取り残される私。駐車場のアスファルトから立ち昇る熱。暑さのせいだろうか?目の前が真っ暗になりかける。ぐらりと私は体が傾いた。熱いアスファルトに手をついて体を支える。しゃがんで顔を手で覆う。


「おいっ!どうしたんだよ!?」


 野球部のユニフォーム姿で走ってきた長身の……誰?と私は顔を向けると栗栖さんの弟の栗栖先輩だった。ランニング中だったらしい。汗だくだ。


「少し座ってれば大丈夫です。ちょっと目眩がしただけなので……」


「……せめて、日陰に行けよ。立てるか?」


 ヒョイッと、私の腕を軽々と掴んで支える。校庭の木陰に移動した。


「よくあることなのか?顔色、悪いぞ」


「時々です。大丈夫です。練習に戻ってください」


 ニコッと私は笑って見せる。やっぱり兄弟だと思う。弱ってる人を放っておけないらしい。


「まったく大丈夫に見えねーよ!」


 ったく!保健の先生呼んでくる!と栗栖先輩が走り出そうとするので、慌てて私はユニフォームを掴んだ。


「大丈夫!大丈夫なので……本当にあと少ししたら動けますから……」


 先生に知られて、母に連絡されたくなかった。迷惑かけたくない。誰の迷惑にもなりたくない。


「ほんとかよ?そうは見えないけどな。オレはランニング中だし、そろそろ行かないと怒られる」


「いつもすぐ治るから大丈夫です。練習へ行ってください」


 そうか……?と躊躇いがちに栗栖先輩は言う。


 ありがとうございましたと私はお礼を言う。いや……と短く返事をして行ってしまう。ホッとして、私は木陰でしばらく座る。木の幹のところでアリが忙しなく動いているのや、夏の青い空に飛行機雲の無い飛行機が飛んでいくのをじっと見た。そういえば栗栖さんが飛行機雲ができないときは明日も晴れるって教えてくれた。


 なんだか疲れちゃったな……。

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