さよなら積乱雲

 真莉が星なら私は月だねと、そんなことをいつか言ったのを思い出した。


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 小鳥が鳴いている。背中を反らして大きく伸びをすると、目をこすりながら玄関へ向かう。エレベーターで階下へ降り、ポストを覗く。新聞を引っこ抜いて戻ろうとすると、まだ郵便物が残っていることに気づいた。手を差し込んで取り出すと、はがきが二枚。ぺりぺりとめくれるタイプのものだ。私と真莉にそれぞれ一通ずつ。はがきと新聞を抱えて部屋へ戻る。その途中で彼女の寝室へはがきを投げ込む。思ったところには落ちない。仕方なく拾って作業机の上に置き直した。ここなら気づくだろう。新聞で扇ぎながら廊下を歩く。風は生温くて涼しさとは縁遠かった。盛は過ぎたものの、まだまだ残暑は厳しい。彼女が起きたらエアコンを入れよう。まだ片づけていなかった布団に寝そべる。背中が熱い。転がって床へ逃げた。

「何のはがきかなー。」

 端を爪でつまんで開く。つやつやのシートに覆われた中身は、結婚式の招待状だった。左側にはお決まりのご出席、ご欠席の丸付け欄。なぜか既に出席に丸がついている。

「結婚式に呼ばれるような交友はなかったと思うのだけど。」

 しかも強制出席。誰の結婚式なんだ。丸付け欄には特に何も書かれていない。首をひねりながらはがきの右側に目を移すと、若干の既視感を覚える。

「……真莉の絵?」

 ふたりの新婦がヴァージンロードを歩いている。後姿なので顔はわからないが、ベールからのぞく髪の色はどことなく私と彼女のもののようで。右下には小さく日付が入っている。二週間後だ。奇しくもその日は、まぁ特別な日だったわけで。

「…………乙女だなぁ。」

 ただでさえ暑いのに。これ以上暑くしないで欲しい。透明なビニール袋を取り出して開いたままのはがきを収める。軽く空気を抜いてシーラーで閉じた。ラミネーターがあれば一番良かったのだけど、生憎専門外だ。商品の梱包に使っているものだけど、シーラーがあってよかった。さらにクリアファイルに挟んで、引き出しに入れる。壁に貼ってもよかったけど、退色が怖い。

「もちつけ私。」

 噛んだ。一切落ち着けていない。朝ご飯を食べたら製作だ。ライムグリーンの着色料の小瓶を取り出してにやける。ついにこれを使う時が来た。二週間なら充分、久々に腕が鳴る。頭の中は既に構想でいっぱいだった。


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「真莉は手が綺麗よね。」

 白くて細くて長くて。自分の日に焼けた短い指を見て嘆息する。

「永実ちゃんの手は小さくて可愛いよ。」

 彼女が差し出した手に、仕方なく合わせる。身長はほとんど変わらないのに、私の指は彼女のそれより一センチばかり短い。

「何が可愛いもんですか。カメラが持ちにくいったらありゃしないのよ。」

「今だけじゃないかな。ほら、カメラだってどんどん小型化して永実ちゃん独り勝ちの時代が来るかもよ。」

「だといいけどねぇ。」

 ふわふわと軽やかに髪が揺れて。彼女は存在感というか、質量が、あまりないような気がする。風に連れて行かれてしまいそうだ。

「髪も柔らかいし、目もいいし美人だし。真莉は私にないもの全部持ってるんだから。不公平じゃない、ひとつくらい寄越しなさいよ。」

「永実ちゃんの髪、まっすぐで私は羨ましいけどな。梅雨も大変そうな様子ないし。」

「まぁ寝癖だの湿気だので困ったことはないけど。巻いてもとれちゃうし、面白みないもんよ。」

「そうなの? あと永実ちゃんは私より美人だからね。」

「お世辞ならいいわ。質の悪い冗談ね。」

「ひどーい、本当なのに。」

「なんてね、ありがと。」

「初めから素直に受け取ればいいのにー。」

 リスみたいに頬を膨らませる彼女がおかしくて吹き出すと、彼女も堪えかねたのか空気を吐き出して笑った。彼女は笑うと少しだけ頬が赤くなる。このことを知っているのはたぶん私だけなんじゃないかと思う。彼女はいつもひとりだ。薄くて淡くて儚くて。数秒目を離せば跡形もなく消えてしまいそうで。そのくせ追おうと思えばひらりひらりと躱される。追えば離れていくなら。留まっていたいと思わせるような、そんな何かになろうと思った。

「……なにせ彼女は被写体にぴったりなのである。」

「なに?」

「何でもないよ。」

 白地に紺のセーラーカラー、鮮やかな空色のタイ。洗濯したての制服に負けないくらい白い肌が袖口からするりとのびていて、つくりものの様な滑らかさと奥行きのない立体感が視線を縫いとめて離さない。

「夏休み何してた?」

「引きこもって絵描いてた。」

「そんなことだろうと思った。」

「永実ちゃんは?」

「撮影会とか、写真撮ったりとか、現像したりとか。」

「だと思った。」

 夏休みという大きな空白を経ても何も変わるところはない。そういえば、一緒に遊びに行ったりだとか、そんなこともなかった。私と彼女の接点はあくまで学校で、それ以上も以下もない。

「高校最後の夏休みなのにさ、あんまりそれっぽいことしてないよね。」

「あー、青春って感じのね。」

「永実ちゃんは、進路、どうするの。」

「んー、まだうすぼんやり……。でもこれから真莉とも会えなくなるんだよね。」

 この完璧な被写体を手放すのは非常に惜しい。惜しいなぁと思ってぼうっと見ていると、目が合ってすぐに逸らされた。何か思いつめたように唇を噛んでいる。

「どした。」

「ううん、何でもないの。」

「進路悩んでるの?」

「そういうわけじゃ、ない、けど。」

「ふーん?」

「ほんとだよ。」

「とにかく、私でいいなら話聞くから。ね。」

 この場面は見覚えがあった。彼女は自分のことを話さない。それは自衛であり集団からの乖離であり、彼女が選んだ方法だった。

『真莉はさ、ひとりで抱え込みすぎなの。』

 あの時の私はこう言った。気休めに過ぎなかったが思った以上に効果を発揮してくれたのかもしれない。彼女は少しずつ笑うようになった。

 だけど彼女はまたひとりになる。大きくなって飼えなくなったペットを野生に放すようなものだ、私がしようとしているのは。手なずけてかわいがって、でも手に負えなくなって。

 小さく動いた彼女の唇が何を言っていたのか、それはわかっていたけれど。


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 快晴。秋晴れというやつだ。空は青く高く、雲ひとつない。夜までこの天気が持てば星空も綺麗に見えるだろう。もちろん月も。

「どこに行くの?」

「着いてからのお楽しみ。」

 そう言って微笑む彼女は真っ白なワンピースに紺のサンダル、デニムのジャケットを羽織って大変に可愛らしい。私はというとお察しの通りパーカーにサルエルなのだけど、それはさて置き。平日の早朝からいったいどこへ行くのだろう。まだ店が開くには早い。それとも移動に時間がかかるのか。着いてからのお楽しみと言われては気になって仕方がない。ヒールで少し私の背に近づいた彼女の隣を歩きながら、すれ違う住人達に挨拶する。ちょうど通勤時間帯のようで、初めて見る顔も多い。近所付き合いが皆無なのだ、私も彼女も。

「こんな時間に家出たの初めて。」

「私も。」

 人の流れに乗って駅まで辿り着くと、彼女がふたり分の切符を購入する。一枚を私に手渡しながら先を歩いていく。乗り込んだ電車はラッシュ時であるはずなのにガラガラで、空いた座席に並んで座る。

「どれくらい乗ってる?」

「二十分くらい。」

 どこだろう。空き具合からして下り列車なのだと思うけど、住宅街に用があるのだろうか。文庫本を取り出す彼女を横目にぽちぽちと携帯ゲームを始める。しまった、イヤホンを忘れた。スタート画面を睨んだところでイヤホンは出てこない。ミュートでプレイするのも微妙な気分だ。仕方なく携帯をしまって彼女の肩に頭をもたせかける。読みにくいよ、と言われた気がしたが聞かなかったことにした。


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 まだ開業前の早朝。撮影機材の準備をしながら旧友が訪れるのを待っていた。二週間前に突然サイトの問い合わせフォームに連絡があって、今日の予約を取った。なるべく人がいない時間、ということだったしせっかくだから彼女と少し話もしたいと思って早朝を提案した。しかしウェディングドレスのレンタルはいいのだけど、なぜ二着なんだろう。首をひねっていると入口の扉が開く音がした。階段を駆け下りて迎えると、彼女と、もうひとり知らない女性が一緒だった。

「久しぶり、永実ちゃん。」

「久しぶり。髪染めたのね。」

「永実ちゃんは切ったんだね、眼鏡も。」

「ファインダーが覗きにくいからね。すっきりしていいもんよ。」

 私が彼女の隣に立つ女性に送る視線に気づいてか、彼女が慌てて口を開く。

「永実ちゃん、こちら緋田庵さん。今、ど、ルームシェアしてるの。庵、こちら新田永実さん。高校の同級生だよ。」

 彼女がその、庵さんを呼び捨てにしていることに少し複雑な気持ちになる。

「今は紀田だけどね。」

「永実ちゃん結婚してたの?」

「つい最近だけど。」

「そうなんだ、写真家の夢もかなってよかったね。」

 私がしたかったのはこういうことじゃないけど。でもそれは彼女に言ったところで仕方のないことだ。いわゆる高級住宅街に建つこの写真館は、私の庭で、そして、彼の鳥籠。総てが揃っているのに、私の翼だけは綺麗に折られて、丁重に手当てされて、今日も届かない悲鳴をさえずるだけ。私の写真に理解を示してくれるなら、わかって、許してくれると思ったのに。

「ありがと。真莉は今何やってるの?」

「えへへ、実は私も念願叶ってイラストレーターやってるよ。まだまだひよっこだけどね。」

「そう、頑張ったじゃない。」

 私が努力しなかったとは言わないけど、言いたくないけれど、彼女はその何倍も何十倍も頑張ったのだと思う。だから、仕方ない。理想との差は、仕方ないことだ。

「衣装部屋はこっちよ。着替え終わったら突き当りの部屋に来て。」

 ふたりを衣装部屋に押し込んでから機材の最終調整に入る。椅子を一脚用意して真ん中に配置する。程なくして真っ白なふたりが部屋に入ってくる。レンタル衣装のためサイズ調整がきくように、背中が大きく開いて編み上げる形になっている。あんなに彼女の写真を撮ったのに、その白い背中を見るのは初めてで。なんとなく悔しいと思ってから、どうして悔しいのかわからなくなる。

「そこの椅子にどうぞ。」

 裾を踏まないように慎重に歩く彼女はどこか滑稽で、それでも椅子に腰を落ち着ければ比類なく美しくて。もう一度彼女をフレームに収められる日が来るとは思っていなかったものだから、少しだけ緊張で手が震える。深呼吸をしてから彼女に合図を送って、まずは一枚。それから数枚撮って、交代するように言った。

「ふたりで一緒に撮ってくれませんか。」

「い、庵? いいよ、後で合成するから……。」

「面倒じゃん。今一緒に撮ってもらったほうが楽でしょ。」

「でも、」

「嫌なの?」

「わ、私は庵単体の写真が欲しい……。」

「じゃあふたりで撮った後ひとりで写るから。」

「約束だからね。」

「わかった。お願いします。」

 彼女の座った椅子に手をかけて立つ庵さんがこちらに向き直る。慌ててシャッターに指をかけて、力を込めて。いくら押しても沈み込まないそれに焦りを感じる。どうして。酷く指が震える。

「撮らないんですか。」

「ちょっと庵、んむっ。」

 咎める彼女を遮るように、乱暴に唇を奪う。びっくりしたように目を見開いていた彼女もしまいには目を瞑って、その感覚に浸る。一秒が何時間にも感じられて、ファインダーから目を離すことも、シャッターを押すことも出来ない。首が、目が、指が凝り固まって動かない。張り詰めた筋肉繊維が限界を迎えようといった頃、ようやくふたりが離れる。私も首を伸ばして、そこで庵さんと目が合う。

「今の、シャッターチャンスだったでしょ。」

「庵! ……ごめんね、永実ちゃん。」

 顔を赤くした彼女が言い訳するように詫びる。何がごめんねなのか。幸せそうにやっていて何よりじゃないか。違う。私は幸せそうなふたりが羨ましくて妬ましくて、それなのにかすかな嫉妬を向けてくる庵さんが憎いのだ。これ以上何を望もうというのか。私は別に彼女の何でもない、ただの友達で、同級生で、三年を共にした。それだけだ。そんな希薄な関係にすら刃を突き立ててくるその姿勢に腹が立つ。過去に彼女が私をどう思っていようがそれは過去の話だ。今は関係ない。彼女は私の所有物じゃない。じゃあどうしてこうも苛ついているのだ。認めたくないだけ? 私が、そう、少なからず彼女を好きだったってこと?

「あのね永実ちゃん。」

「何よ。」

 咄嗟に出た声はまだ擬態が済んでいなくて、尖ったままだった。彼女は悪くない。彼女に当たるのは筋違いだ。

「私、本当は、高校の頃、永実ちゃんが好きだったの。」

「……だろうなと、思った。」

「言ったら終わるって思ってた。だから言えなかった。」

「今日は、終わらせに来たの?」

「変わっちゃってごめんね。でも、永実ちゃんもそうでしょ?」

 そうだ。彼女だけは変わらないと勝手に思っていたのは私だ。傲慢だ。振り向いてもあげないのに、ましてや自分から歩み寄る勇気もなかったくせに、彼女に変わらないままでいろだなんて。誰だって変わる。私だって変わった。受け入れなければならない。あの夏にはもうどうやったって戻れやしないのだ。

「……そうね。」

 私といた時より柔らかくなった表情も、明るい色の髪も、全部知らない。私が知らない彼女の時間。彼女はもうひとりで抱え込まなくて済んでいるみたいだ。私にはできなかったこと、庵さんにはできるのだから。

「笑って。」

「え?」

「写真、撮るんでしょ。」

 せめてもの餞に。私ができるのはこれだけだ。


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「まだどこか行くの? もう日暮れちゃうけど。」

「着いてからのお楽しみ。」

 またもはぐらかされた私は諦めて真莉の膝をくすぐる。写真館を出てからは街に戻って真莉チョイスの映画を見て、ご飯を食べて、デザートを食べて、服屋を冷かして、そしてまた電車に乗っているのだった。ヒールでよく歩けるなぁとくすぐりながら感心する。

「やめてよっ。」

 小声で訴える彼女に免じてくすぐるのはやめた。まだ帰宅ラッシュには早いがそれなりに混んでいる。これも下り列車のようで、どんどん景色を遮る建物が減っていく。

「今度は何分?」

「次で降りるよ。」

 文庫本をしまいながら立ち上がった彼女に続いてドアの前に立つ。降り立った駅は閑散としていて、自動改札を抜けるとぽつりぽつりと街灯が並ぶ一本道があるのみだ。道沿いに歩いていくと、緩やかな上り坂に出会う。しばらく上ったあたりで右手に小さな階段が現れる。木の間に埋め込まれたかのようなそれを登っていくと、開けたスペースに出た。転落防止の柵、コインを入れると覗ける双眼鏡が三台とベンチがふたつ、隅のほうに簡素な鐘が下がっていた。

「展望台?」

「隠れ名所みたいよ。」

 それは名所といえるのか。確かに、もうほとんど沈んでしまったけど夕陽の残滓が一望できる。完全に沈んでしまえば綺麗な星空が臨めることだろう。風が優しく、生温い空気をかき混ぜていく。過ごしやすい夜になりそうだ。

「真莉、ひとつ訊いていい?」

「どうぞ。」

「どうして今日は、指輪してないの。」

「だって、」

「だって?」

「庵が、くれるんでしょ。」

「……ご明察。」

 リュックから小さな箱を取り出す。蓋を開けると微妙にサイズの違うふたつの指輪が並んで入っていた。シロツメクサの花冠を模したエンゲージリング。ベタだけど結婚式といえばこれだろう。小さいほうを彼女の薬指にそっと通す。彼女も箱から残ったほうをつまんで、私の薬指に嵌めた。何かの儀式のようにお互いの左手を合わせて、目を合わせて、呼吸を合わせる。

「病める時も健やかなる時も、死が、ふたりを、分かつまで。」

 彼女が静かに、誓いの言葉の一部をそらんじる。誓うか誓わないかなんて訊くまでもない。夕陽と入れ替わりに上ってきた満月が暗闇にほのかに浮かび上がる。雲がないからか山の端にかかっていてもくっきりと輝いている。眩しいほど光を湛えたそれは名月と呼ぶにふさわしかった。

「月が綺麗だね。」

「月はずっと綺麗だよ。」

 彼女の手が頬に触れる。そのまま引き寄せられて、唇が優しく触れ合う。絡み合う舌と混ざり合う唾液が、おやつに食べた抹茶パフェよりずっと甘くて、ホットココアより熱くて、生クリームより蕩けて、マシュマロより柔らかくて。ずっと触れていたいような、なくなってしまいそうでもったいないような気持ちに襲われる。数秒悩んで、わずかにもったいなさが勝って顔を離す。

「抹茶の味がした。」

「舌出してみて。」

「すごい緑だよ。」

「うそ、真莉は。」

「緑になってる?」

 彼女の舌を舐めて答える。彼女は悲鳴を上げたようだが舌を出していたので不発に終わる。

「なななななな何するの。」

「あ、真莉。蚊がとまってる。」

「え、どこどこ。」

 あたふたしている隙に無防備な彼女の首筋に吸い付く。無垢な白が目の前を埋め尽くして、いい匂いがする。

「ぅひゃっ。」

 ゆっくりと軽く噛んでから口を離すと、白い肌に染みのように赤い点が浮かんでいた。耳が赤い彼女に上目遣いで睨まれる。申し訳ないが迫力は欠片もない。

「庵。」

「蚊に刺されたんだって。」

「ずいぶん大きな蚊ですこと。」

 目を見合わせて笑った。それからしばらくベンチに座って月を眺めて、何時間経っただろうか、真上に上ってくるまでそうしていた。繋いだ手は汗ばんでいたけれど、どちらからも離さなかった。時折見つめあったり、手を繋ぎ直したり、腕を組んだり、飽きるまで座っていた。隠れ名所たる所以なのか、誰も来なかった。

「最後にアレ鳴らさない?」

「いいね。」

 小さな鐘に歩み寄る。鐘というよりはベルだ。紐を手に取って鳴らそうとしたとき、柵にかかった注意書きを見つける。掠れて読みづらいが、ブロック体で書かれた文書にはこうある。

「夜九時以降は鳴らさないでくださいだって。今何時?」

「……十一時過ぎ。」

「鳴らせなかったね、残念でした。」

 カリヨンの鐘は鳴らなくとも、もともと色々足りない式だったので問題ないだろう。

「帰ろっか。」

 歩き出した足が、裾を引っ張られて止まる。振り返ると、逆光でも白く眩しい彼女が微笑んでいて。見計らったように吹いた風がその髪を揺らす。かき消されないように風が収まるまで待って、彼女の唇が言葉を紡ぐ。

「誕生日おめでとう、私のお月様。」


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「ねえ。やっぱり私、世界に出たい。」

「……止めても無駄だと思ってたよ。」

「わかってたのに止めたの? 写真館まで建てて。」

「僕は君の写真の腕を買ったんだ。もともと君にはこんな小さな世界、身の丈に合わないだろう。でもそばにいて欲しかったんだ、わかるよな。」

「ええ。必ず帰ってくるから。」

「約束だ。」

 彼は本に挟んでいた栞を滑らせて寄越した。四葉のクローバーの押し花がラミネートされている。作ってからかなり時間が経っているのか、葉は茶色く変色していた。第一、こんな安っぽいものを後生大事に取っておくような人だとは思っていなくて、それに一番驚いた。

「……ええ。約束よ。」

 子供みたいに小指を結んで、冗談みたいに童歌を口ずさむ。何の力もありはしないのに、すがる。雲のない空は果て無くて、どこへ飛べばいいかもわからない。それでももう一度飛べる、それだけで籠から放たれた小鳥は嬉しいのだった。今は自分の翼でなくとも、いつかはそれが本当に自分のものになる気がするから。

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