私の織姫

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 初恋は叶わないという。

「彼女なんだと、思ってたんだけど。」

 だって、こんなにも一緒にいたいと思った人はいなかったから。こんなにも幸せだと思ったことはなかったから。こんなにも料理がおいしいと思ったことはなかったから。

「記憶は上書きされていくもの。」

 今が幸せならそれでいいじゃないかと、以前の私ならそう割り切っていたことだろう。なのにわだかまるこのモヤモヤは、悩みごとすかっり忘れてしまおうとする私を掴んで離さない。

「訊いたってしょうがないよ。」

 彼女がどうだったかなんてこと。ちょっと前まではいちいち確認してくる彼女を茶化すように非難したものだけど、今なら彼女の気持ちがわかる。というよりは、今更彼女の気持ちに追いついたんだろう。

「未来のことはわからないし、過去は振り返っても仕方ない。」

 それでも知りたいと思うこの気持ちは迷惑だろうか。たとえ一時でも、彼女の総てを手に入れたいと思うのは傲慢だろうか。隣にいるだけでは飽き足らず、彼女のひとつを知る度、またひとつ欲しくなる。

「いつもわがままばかり言ってるけど。」

 もっと大きなわがままをひとつ。


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「真莉の初恋はいつだったの?」

「えっ、これまた急だね?」

「初恋の話を切り出すのに最適なムードってある?」

「……うーん、思い当たらない。」

「だよね。」

 彼女は考える時に必ず顎に手を当てる。気取った探偵のようなしぐさだけど、彼女がしていると背伸びした子供みたいで微笑ましい。

「コーヒーでも淹れようか。」

「長くなるの?」

「ううん、私が飲みたいの。」

 知りたいと思ったのは本当なのに、つまらない嫉妬が口をついて出てきそうになる。めんどくさい奴だなぁ、私。キッチンへ立つ彼女を目線だけで見送って、頬杖を突く。カチャカチャとカップを用意する音と、ほのかなコーヒーの香りが部屋まで漂ってくる。小さな鼻歌まで聞こえてきて、ご機嫌だな、と思う。私はご機嫌とはとても言えないというのに。

「おまたせ。」

「んん。」

「何の話だっけ。」

「初恋。」

「笑わないでね?」

「笑わないよ、たぶん。」

「小学校の時ね、席替えで隣に座った男の子。いっくんって言うんだけど。」

「ふうん。」

 彼女も私と同じだったらいいのに、という淡い期待はあっさり崩され、少し落胆する。

「でも、恋っていうよりお絵かき仲間って感じが近いかなぁ。」

「……そう。」

 私と彼女では分かち合えるものが少ない。服の趣味も、映画も。仕事では少し交わりがあるのが救いだった。

「高校の時はね、永実ちゃん……かな。どっちも友達のまま終わったんだけど。」

「女の子、なんだ。」

 彼女にとって私が最初の特異で転換点で特別だったらいいのにという願望ももろく崩れ去った。でも、初めて踏み出そうと思ってもらえた、というのは嬉しい限りだ。

「変だよね、でもわかんない。私にとっての普通はこうなのかな。」

「……。」

 コーヒーに口をつける。今日はカフェモカだった。口内を液体で満たしながら考える。あまりにも自然に彼女を好きになっていたせいで忘れていたけど、私たちは女同士なのだった。そもそもが色々と曖昧でちぐはぐで、私たちの関係がどう表わされるのかわからない。

「でもね、庵に誰かを見てるとか、そんなことは全然ないの。」

「うん。」

「そういう庵はどうなの?」

「……真莉。」

「……私?」

 自分の顔を指差しながら、彼女は目を瞬かせた。それからじわじわと俯いていく。耳が真っ赤だ。この反応にも慣れつつあるがやっぱり可愛い。ため息をつきたくなるほど可愛いと思ったのも真莉が初めてだ。

「初恋云々という以前に、人間をそういう対象として見てなかった節がある。」

「どういうこと?」

「私ってさ、お節介焼きじゃん。だからさ、人間みんなお節介を焼く対象としか思えなかったの。」

「うん。」

「でも真莉はね、お節介を焼かなきゃとかそんなんじゃなくて、もっと馬鹿みたいに無駄なことして過ごしたい。」

「たとえば?」

「ここまでが前置きなわけだけど、温泉行こう。」

「……急だね?」

 私だって急だとは思う。しかし温泉に行きたいと切り出すのに最適なムードとは。あいにく文才はないのだ。

「いーじゃん、取材旅行ってことで。」

「温泉はいいんだけど、いつ?」

「明日。」

「急すぎるよ!」

 のけぞる彼女。仰天という表現がぴったりだ。

「なんで。どうせ暇でしょ?」

「そうじゃなくて、準備とか、あるじゃない、いろいろ……。」

「いろいろ、とは。」

 のけぞっていた彼女は一気に俯く。言うのも恥ずかしいいろいろ?

 俯きを徐々に回復しながら、口をぱくぱくさせていた彼女は意を決したように顔を上げる。

「あ、新しい下着買いに行ったりとか……。」

「いつも見てるから別にいいじゃん。」

 洗濯は私の仕事だ。それに、新調するにしても一緒に買いに行く展開が見える。サプライズも何もないぞ。

「こ、心の準備を……。」

「何を今更。」

「だって、だって旅行だよ……?」

「同棲二ヵ月目にして何をおっしゃる。」

「どっ……同棲、うわ、わわわ……。」

 わかりやすく慌てふためく。両頬に手を当ててふるふると頭を振っている。こういう仕草がわざとらしくないところ、すごいと思う。持ってるひとは違う。私は持ってなくてよかったけど。自分でやってても見えないし。

「真莉さんや、日帰りでもいいんだけど。」

 できるだけそれは避けたいのだけど。同じ部屋で、隣の布団で寝たい。

「せっ、せっかく行くんだったら泊まりたい……。」

 言ってて恥ずかしくなったのか尻すぼみだ。彼女は大胆なのかそうでないのかいまいちわからない。

「じゃあ明日から一泊。予約は取ってあるから。」

「なんでもっと早く言ってくれないの?」

 庵の意地悪、と小さく呟かれた気がした。

「好きな子はいじめたいの。」

「……そうやって反論できないこと言う。」

 ぷくっと頬を膨らませた彼女に笑いかける。

「お願い。」

「……ずるい。断れないって知ってるくせに。」

 私のわがままにも慣れてきた様子の彼女は、眉を下げながら笑った。


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 広々とした玄関で靴を脱ぎ、用意されていたスリッパに履き替える。片足でてんてんと跳ねる彼女に肩を貸して、スカートだと三和土に座り込むわけにもいかないのか、と変なところに納得した。

「ありがと。」

「いーえ。」

 今日の彼女は深緑のフレアスカート?だったか、ふわふわのスカートを履いている。変な意味じゃなくて顔をうずめてみたい。後で触らせてもらおうかな。

「予約の緋田です。」

 受付のお姉さんにⅤサインを見せながら言う。宿帳というのだったか、ノートのようなものをぱらぱらとめくっている。

「緋田様二名様ですね。こちらにサインをお願いします。」

 指差された空白に名前を書き、ボールペンを返す。受付の奥の引き戸が開いて、別のお姉さんが出てきた。

「お部屋までご案内いたします。」

 お姉さんについて行くと、途中の廊下に浴場の案内がいくつかあった。卓球台もあるようだ。

「ねぇ庵。」

「なに?」

「ここ、お高いんじゃないの?」

 ひそひそ声で彼女が疑問を投げかける。私の耳に向かって言いたかったのだろうがちょっと身長が足りなかったみたいだ。

「一ヵ月禁酒しました。」

 嘘だ。酒豪でもない私の禁酒程度でこの金額は貯まらない。でも真実を言ってしまうと非常に面白くないので適当に誤魔化す。でも念には念を入れて禁酒はした。帰ったら飲む。

「後で払うね。」

「いいよ、これくらい。たまには格好つけさせて。」

「そう? なら、お言葉に甘える。」

「存分に甘えてくれ給え。」

 ふぉっふぉっふぉと笑うと彼女は思いっきり吹き出した。


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 案内された部屋は広々としていて、個室の風呂も温泉が出るらしい。お茶とお菓子を戴きながら説明を聞く。ご当地のお茶菓子のようで、売店にも並んでいたものだった。おいしかったから帰りに買っていこう。一通り説明が終わったところでお姉さんは部屋を後にした。

「真莉。」

「なに?」

「浴衣着よう。」

「……早速だね。」

 浴衣の彼女を早く見たいというのもあるが、脱いだスカートなら触るのも許される気がするというのもある。

「ほらほら早く。」

「着方知らないよ。」

「着せてあげるから。」

「えっ、ちょ、」

「真莉はSだね。」

 彼女の背中に浴衣をあてがいながら言う。まだ脱いでもいないのに耳が真っ赤だ。

「はい脱いで脱いで。」

「待って! ちょっと待って!」

 振り向いた彼女がオーバーに両手を振る。

「うん。」

「その、私だけ先は、恥ずかしい、から……。」

「じゃあ私が先に着替える。」

 真莉の浴衣を椅子に掛けて、ぽいぽいと脱いでいく。畳むのは後だ。Lサイズの浴衣を手に取って体に巻き付け、きゅっと帯を締める。

「あっち向いててあげるから、脱いだら浴衣羽織って。」

「……うん。」

 控えめな衣擦れの音がしばらく続く。ひた、と歩く音がして、浴衣を手に取ったのだろう、ぱさっと音がする。

「もう、いいよ。」

 ゆっくりと振り向くと、こちらに背を向けている彼女が映る。ひたひたと足音をさせながら彼女に近づいて、俯いて露になっているうなじにそっと口付ける。彼女の匂いがした。

「ひゃっ! ふ、不意打ちは、不意打ちはだめ、って!」

「真莉がこっち向いてくんないから。」

「う……。」

「嘘嘘。よくできました。ほら貸して。」

 おずおずと差し出された袷を受け取って、彼女の薄い体に巻き付けていく。レースがたっぷりとあしらわれたピンクの下着からなるべく目を逸らそうと思えば、日に焼けていない白い肌に目が行く。すべすべと触ってしまいたいけれど、それではただのエロオヤジなので自重する。この旅行は私のためじゃないのだ。いや大変に楽しいですけども、私も。名残惜しいが帯を締める。どこまで締まるんだろうというくらい帯が余って、私と彼女のウエストの差を知る。

「できた。」

「ありがと……。」

 初めての浴衣に嬉しそうな彼女はその場でくるくる回って見せる。喜んでもらえたようで何よりだ。

「ま、後で全部脱ぐんだけど。」

「え⁉」

「大浴場行くよ。」

「いっ、いいっ、私は! お部屋のお風呂で! 充分です!」

「なんでよ、せっかく来たのに。」

「温泉は味わえるよ、ちゃんと!」

「私が真莉と一緒に温泉に入りたいの。だめ?」

「だ、う、…………ずるい……。」

「ね、今の時間、人少ないはずだから。」

「うう……い、行きます……。」

 しぶしぶ折れた彼女を連れて、元来た廊下を戻る。女湯ののれんをくぐって、脱衣所へ足を踏み入れる。浴場の入口に一番近い籠を陣取って、持ってきたタオルやら下着やらを放り込む。

「帯、解ける?」

「だ、いじょうぶ。」

 と言いつつも苦戦する彼女を横目に、先に脱ぎ終わってしまう。まだ帯の結び目と格闘している。

「貸して。」

 背中から腕を回して、帯を解く。ついでに浴衣も引っぺがした。

「ちょ、庵!」

「大丈夫、今貸し切り状態だよ。」

「そうじゃなくて、う、もういいや……。」

 何かを諦めた彼女はタオルで隠しながらも気持ち豪快に脱いだ。籠から入口まで走ってきて、俯きながら私の左腕に絡みつく。柔らかい胸が当たって変な気分になる。それを言うと『もう帰る。』と言いかねないから、心の内だけに留める。せっかく泊りにこぎつけたのに、今日帰られては意味がないのだ。

「肩こりと冷え性に効くんだって。」

「へぇ。」

 ガラス張りの広い湯船に感動しつつ、ひとまず体を洗ってから湯につかる。熱い。隅へ逃げた。彼女も私の横にぴったりついて移動する。太ももが触れ合う。湯が熱いからか彼女はいつもより顔が赤い。それを見たせいか単に血行がよくなったのか、心臓が早鐘を打つ。彼女は頭にタオルを乗せて温泉スタイルなので、俯くと落ちてしまうのだろう、虚空を見つめている。だからか。赤面した彼女の顔をまともに見るのは初めてなんだ。

「真莉さん。」

「なに?」

「キスしません?」

「今……?」

「誰も来ないよ。」

「でも、」

 彼女の反論は正しく、ちょうどひとり、浴場に入ってきたひとがいた。

「あとでね。」

 彼女がぽしょっと耳に囁きかける。小さく頷いて、彼女の頭のタオルを手に取る。彼女の顔は真っ赤だし、たぶん私も真っ赤だ。

「あがろうか。」

「うん。」

 気持ち軽くなった肩を回しながら、ぺたぺたと歩いて浴場を後にする。彼女の着付けを手伝って、お互いに髪を乾かしあって、コーヒー牛乳を飲む。腰に手を当てて飲んでいると彼女に笑われた。彼女は彼女で一口ごとに唇を舐めるので色々と吹っ飛びそうになる。堪えるのに必死だった。


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 部屋に戻ると既に夕食が用意されていた。

「おお~、なんか旅館っぽい。」

「おいしそうだね。」

 茄子や南瓜、大葉を使った天ぷらと、涼し気にざるそば。温泉卵。梅肉が入ったドレッシングのサラダなど、夏らしいメニューが所狭しと並ぶ。下座に腰を下ろすと、彼女は申し訳なさそうに上座に座った。座椅子の配置上仕方ないのだが、私と彼女は向き合う形になる。

「真莉の顔見てご飯食べるの初めて。」

「そ……うだね。」

「たまにはいいかも。」

「……やっぱり隣に行きたい。」

「おいで。」

 箸と座椅子を持ってやって来た彼女を、壁に寄って迎え入れる。

「いただきますのキス。」

「初めて聞いた。」

「初めてをたくさん経験するための旅なのです。」

 小首をかしげながらも、彼女は特に抵抗しない。合意と受け取って短く唇を合わせる。かすかにコーヒー牛乳の味がする。湯上りで上気した肌と熱い吐息が相まって艶っぽい。見つめていると彼女は俯いてしまうし、料理も冷めてしまうので手を合わせて食べ始める。おいしいと言うか悩む。おいしいのは事実だけど、私は彼女の料理のほうが好きだし、でもそれを言うと彼女は頑張りすぎてしまうのも目に見えている。適度に休み適度に頑張ってもらいたいこの気持ちはどう伝えれば。

「おいしいね。」

「うん。」

 彼女に先を越されてしまったので小さく頷く。そばつゆをそば湯で割って飲み干す。デザートには一口サイズに切り分けられたスイカがついていた。楊枝で刺すとサクッとした感触が手に伝わり、口に入れるとさわやかな甘みが華開く。スイカは好きだ。

「あげる。」

「要らないの?」

「庵が幸せそうに食べるから。」

 バレていた。本心としてはお言葉に甘えたいがそうも言ってられない。

「それは真莉の取り分。」

「私があげたいのに。」

 なおも食い下がる彼女の口にスイカを放り込む。

「んむ。」

「おいしいでしょ。」

「うん。」

 シャクシャクと咀嚼しながら彼女は頷く。ふたつ目の欠片に手を伸ばそうとして、なぜか引っ込めてしまう。なぜかこちらをちらちら見る。食べな、とジェスチャーすると、なぜか首を振られる。

「さっきの、もう一回……。」

 さっきの? さっきは口にスイカを放り込んだだけだけど。……あ。

「あーん?」

 途端に彼女は顔を赤くして、でも首は下げないで。珍しいな、と思いながら楊枝にさした欠片をゆっくりと彼女の口元へ運ぶ。ちろりと舌を出して受け止め、唇で半分ほど食みながらちゅっと吸う。間に合わなかった雫が、私の指を伝って手のひらまで落ちていく。スイカが楊枝から抜けていき、彼女の頬の中に収まる。数回噛んで、喉が上下する。楊枝を置いて手を拭こうとすると、その前に彼女の舌に舐め取られる。ざらざらしたそれが手のひらを滑って行き、指の間を、這う。指先が口に、熱い唾液と舌で蹂躙される。ぞくりと、背中を何かが走った。

「ま、り……っ。」

 我慢できずに声を出してしまう。彼女はハッとしたように口を離して、手のひらで顔を覆う。そのまま背を向けられる。

「ごめ、のぼせて、変に、なってるのかも……。」

 肩を震わせながら、か細い声で。いつも小さいのに今は格段に小さい。このまま放っておけば綺麗に消えてなくなってしまいそうだった。

「真莉。」

 彼女の髪をぽふぽふする。いつも通り柔らかい。少し安心する。

「怒ってないよ。」

「……ほんと?」

「ちょっとびっくりしただけ。ね?」

「…………う、ん。」

「大丈夫だから。」

 背を向けたままの彼女を抱き締める。熱くて、柔らかくて、頼りない。ふわふわと不安定で、力をかければ簡単に折れてしまいそうで、それでも逃がさないようにきつく。彼女の呼吸と、私の心臓が落ち着くまで。


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「お布団の用意に上がりました。」

「お願いします。」

 目の腫れた彼女を隠すように立って、食べ終えた膳を下げてもらう。

「真莉、卓球しに行こう。」

 彼女の手を引いて部屋を出る。長い長い廊下を歩いて、ちらと卓球台を見る。先客がいた。そのまま廊下を突き進み、中庭に出る。夜風が火照った体を冷まし、大粒の砂利が咎めるように音を立てる。隅のほうに小さなベンチがあったので腰を下ろす。雲のない満天の星空が、四角く切り取られている。

「真莉、ごめんね。」

「……なんで庵が謝るの。」

「私、自信なかったの。真莉を嫌わない自信。」

「『未来のことまで、責任持てない。』」

「そう。でもさ、責任持てるかどうかじゃなくて、持たなくちゃいけないんだよね。」

 彼女は私に全部預けてくれてたのに。私はそうするのが怖かった。わがままで彼女を振り回してばかりだった。

「ねぇ真莉。好きだよ、この先もずっと。」

 さっき泣き止んだばかりなのにまた目が潤んでいる彼女は、それでも笑ってくれた。

「私も、庵。」

 熱くて少し塩辛くて、優しく纏わりつく。睫毛が触れ合いそうなほど近くで、星空も闇も空気も何もなく、ただ彼女だけがいた。考える余裕も、時間も、常識も何もなかった。ただただ夜風にこの熱を奪われないように。人目も憚らずにキスをしたのは、その時が初めてだった。


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 布団に忍ばせていた携帯が震える。手探りでアラームを解除して、目を開ける。ごろりと寝返りを打って彼女のほうを見る。彼女は背を向けている。

「真莉、起きてる?」

「……うん。」

 彼女も寝返りを打ってこちらを向く。まだ目が赤い。

「昨日は嫌な思いさせちゃってごめんね。」

「もういいよ、庵が、未来もくれたから。」

「私ね、真莉の一番で特別で全部になりたかった。」

「……もうなってた。」

「私の中ではさっき。」

 相手の一番になるには自分を差し出す覚悟をしなければだめだ。そういうものなんだってやっとわかった。

「でね、今日になったら私が一番に言いたいことがあったの。」

「なに?」

「誕生日おめでとう。それと、いつもありがとう。」

 どうしてそれを、とでも言いたげに目を丸くする。

「サイトのURL、〇七〇七って入ってるでしょ。」

「あっ。」

「何歳になったの?」

「女性に年を訊くのは……。」

「私も女性なのでオールオッケー。」

「……二十三。庵はいくつなの。」

「二十七。」

「……庵さん。」

「いつも通りにしてよ、遠くなったみたいでいや。」

 彼女が頷くのを見届け、布団を探って紙袋を取り出す。

「あとこれ、プレゼント。」

「開けていい?」

「どうぞ。」

 袋の中から現れたのは、七夕をイメージした、短冊が揺れる笹の葉リング。

「嬉しい、ありがとう、庵。」

 マシュマロみたいに甘く柔らかく、ふわりと微笑む。

「こちらこそ。」

 体を起こして両肘をついた彼女が、指輪と左手を差し出す。私も彼女に倣って両肘をつく。

「嵌めて。」

「ん。」

 あの時とは違う、迷わずに薬指へ通す。ぴったりと収まる。彼女はしばらく指に嵌ったそれを見ていたが、やがて目を伏せて指先で私の手をそっとつつく。何の抵抗もなく自然と絡み合う。指の付け根から血流を感じて、一定のリズムを刻むそれが心地いい。冷たかった指輪がお互いの体温で肌に馴染んでいく。

「ずっと一緒に、」

 いてね、と言いかけてやめる。ひとりとひとりだった私達が、昨日からふたりになった。それを強調して、刻み付けて、決して忘れないように。


「いようね。」

 毎日会える私の織姫は、返事の代わりにとびきりの笑顔で頷いた。

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