雷鳴と夜と
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
真莉と暮らし始めてわかった事がある。
「彼女がとてもお寝坊さんだという事だ。」
私は前の家での仕事のせいもあって早起きは苦ではないのだけど、ついこないだまで昼夜逆転生活を送っていた彼女には相当つらいようだ。いつからか朝食作りは私の担当になり、彼女は心ゆくまで惰眠を貪る訳である。こう言うのは寝る事が悪いと思っているのではなくて、私の料理のレパートリーが目玉焼き一択だから、彼女は飽きないのだろうかという、そういう理由だ。
「私はここに住み始める前から毎朝目玉焼きを食べてきた訳だし、もう慣れっこなのだけれど、出来れば彼女の料理が、食べたいなーとか贅沢を、言うだけならタダなのだ。」
彼女がわざわざ買い足してくれた新品の布団からのそのそと起き上がって、布団も決して安くないのに、ぽんぽん買えるお金は一体どこから出てくるのだろうと思う。
「真莉は、彼女の考えてる事も含め謎だらけだ。」
ひとりで考えていても仕様のない事なので、とりあえず今日も目玉焼きを焼く事にした。布団を畳み、洗顔を済ませてキッチンへ向かうと、冷蔵庫にメモが貼り付けてある。『牛乳、卵』。買い物メモのようだ。試しに冷蔵庫を開いてみる。牛乳も卵もそこにはなかった。
「買いに行くか。」
冷蔵庫を元通りに閉め、メモをはがして、服装を確認する。タンクトップとジャージだった。
「下だけ履き替えればいいか。」
どうせ近くのコンビニだ。朝だし人も少ないはず。怠惰の理由を色んなものに押しつけ、書き置きを残して、彼女を起こしてしまわないように、静かに家を出た。
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目が覚める。時計を見る。九時二十五分。今日はまだ早い方だ。さあさあと聞こえる雨音が耳に心地よくて二度寝の誘惑にかられる。
「……空腹が勝ったのだった。」
ぐうと鳴る腹部を見下ろし、諦めて起き上がる。洗顔を済ませてキッチンへ向かうと、いつも先に起きているはずの彼女が見当たらない。まだ寝てるのかと部屋を覗いてみるも、姿は見えない。ピコピコと携帯電話が光っているだけだった。もう一度キッチンへ戻ってきて初めて小さな書き置きを発見する。
「あ、買い物行ってくれたの。」
傘は持って行ったかな、と玄関の傘立てに目をやる。いつものように持ち場を守っている二本の傘。
「どこまで買いに出たかな……連絡があれば迎えに行くんだけど。」
彼女の部屋で充電器に繋がれた携帯電話を思い出して首を振った。
「行き違いになってもな……。」
ということで、大人しく待つことにした直後、ドアを開ける音がした。玄関まで出る。
「ただいまー。」
「おかえりー……って、ずぶ濡れじゃない!」
「やー、雨降るとは思ってなくて。」
「もう、ビニール傘でも買えばいいのに……。タオル取ってくるから。」
彼女の手からレジ袋を受け取って、濡れて肌にはりついたタンクトップが視界を掠めて、目をそらす。
「ありがと。」
言いながらタンクトップの裾を手繰り寄せて絞り始めるものだから、体は洗面所へ向かいながらも自然目がそちらに向いて、首が痛い。彼女が見えなくなったところで首を戻す。うむ、うむうむ。
「こしがすごく、くびれていた。」
いや見るべきところはそこなのか? 他に何がある。むねもおおきかった。
「……駄目だ、思考回路が男子中学生だ。」
落ち着こう落ち着こう。私の日常はこればっかりだ。
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シャワーを浴びてさっぱりな彼女は、やはりタンクトップに着替えてから戻ってきた。言っておくが覗いてない。覗いたら最後、私が爆発するまで織り込み済みだ。
「では、目玉焼きを焼きます。」
「待ってました。」
「本当に待ってた?」
「庵の目玉焼きは美味しいよ。」
「真莉が目玉焼き焼いたら自信なくすから、絶対焼かないでね。」
「焼かないからひとついい?」
「なに?」
「ぎゅって、していい?」
「いいけど、どうしたの急に。」
「んー。」
許可を得たのでフライパンを見つめる彼女の腰に抱きつく。細い。そのまま腕をずり上げる。
「なになに、くすぐったいよ。」
腕にかかる重力、大きい。ないすばでーだ。さすが彼女。
「はいはい危ないよー。」
腕をぺちぺちされたので彼女から離れる。彼女は着痩せするタイプみたいだ。皿に着地する目玉焼きを見守り、調味料片手に席に着く。
「「いただきます。」」
彼女は醤油、私は塩。今日も彼女の目玉焼きは美味しいのだけど、今日ばかりは新事実の衝撃の方が大きかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
彼女が積極的なのは珍しいので真っ先に飲酒を疑ったけれど、空き缶は見当たらなかった。つまり、素だ。私といるのにも慣れてきたのかもしれない。いい傾向だ。彼女がびっくりしたり俯くのを、始めは可愛いと思っていたけど、近頃は何だか私が彼女をいじめてるような気になるから。
「雨、酷くなってきたなぁ……。」
雨の日はアレが来るんじゃないかと気が気でない。ピカッと光ってゴロゴロするやつだ。さっき出かけた時もいきなり降られたんで、落ちてきたらどうしようかと思った結果、金属製の傘は危ないという結論が出た。カッパは暑いので眼中にない。蒸れたらどっちにしろ着替えたいし。
午前中は洗濯を済ませたり、軽く掃除をしたりして過ごす。それからなんとなく彼女の髪をいじったりする。色素の薄い髪が蛍光灯の光に透けてきらきらだ。指に絡めてその柔らかさを楽しむ。ちらと振り返った彼女が小さく微笑む。私だけが彼女をほとんど独占している。
「ふふっ。」
「なにか面白いことあった?」
「んー? 可愛いなぁって。」
「あんまり言うと慣れちゃうよ。」
「慣れて、私にもっと可愛い顔見せてよ。」
彼女の耳がカッと赤くなる。調子に乗って熱いそれを舐めてみる。彼女は「ぴゃっ!」っと言って耳を押さえた。
「不意打ち……不意打ち禁止!」
「ごめんごめん。」
「全然反省してない……!」
「真莉、今日のお昼なに?」
「……鶏があるし、親子丼かな。」
「やった。」
「そろそろ準備始める……落ち着くからついて来ないでね……!」
「はいはい。」
耳を押さえたままぱたぱたと駆けていく彼女を見送って、テレビの黒い画面に向き直る。
「はー……かわいすぎ。」
思い返して悶える。画面に映る余裕なさげな顔。
「……こっちだってノーダメージなわけじゃない。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
彼女の作った親子丼を食べたら、ふたりとも夕方まで仕事だ。彼女の隣で作業してみようとした事もあったけれど、彼女が見られてると描けないと言うから、仕方なく別々の部屋でする事になった。公私混同はいけないよね。仕事だもの。
「と言いつつ、腰を上げる私。」
「部屋を出る私。」
「真莉ぃ。」
びっくりする彼女はやっぱり可愛いのだった。決していじめてる訳ではない。そんなつもりは毛頭ない。実はちょっとある。
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今日も彼女にたくさん作業妨害をされながら、彼女と同居してるなんて夢のようだと未だに思っていた。ちまちま貯金した甲斐があったというもの。新しい布団だって、彼女の笑顔が買えるなら安いものだ。さすがにベッドを買うのは、業者を入れたり何なりと面倒なので諦めた。
「私のベッドを譲ってもよかったんだけど。」
彼女は布団がいいと聞かなかった。ベッドは落ちるから嫌なのだそうだ。布団は朝見るとしっかり畳んであるし、几帳面だ。
「ベッドからしょっちゅう落ちるって、どんな寝相なの。」
私もそんなによくないはずだが、まだ幸い落ちたことはない。彼女は相当の寝相らしい。
寝返りをうったと同時に、窓の外で閃光が走った。遅れて地響きのような音が聞こえてくる。
「雷だ。」
光と音の間が長めだから近くはないみたいだが、立て続けにチカチカと光る。ゴロゴロと鳴る。
と、雷を数えていると、何かがタオルケットの中に入ってきた。心臓が跳ねる。怪奇の類ならば断固お断りだ。説明のつかないものほど怖いものはない。なるだけ縮こまって壁際に逃げる。それを追うように伸びてきた細長い何かに引き寄せられて、抗おうとも体が動かない。背中に柔らかいものを感じて、肩はがっちりホールドされて、今どういう状況なのかまったくわからない。
「……真莉、起きてる?」
囁かれたその声が、知っている声で安心したのは言うまでもないが、そこから更に今どういう状況なのかわからなくなった。
「……起きてる。」
「雷止むまで、こうしてていい?」
こうしてて、とは。この背中の柔らかいのは彼女の胸ということでいいだろうか。私の肩に回されてるのは彼女の腕ということでいいだろうか。私は彼女に抱きしめられているということでいいだろうか。爆発しそうだがいいだろうか。よくない。
「……どうぞ。」
「笑わないでね。雷怖がってるの。」
「ホラーは平気なのにね。」
「アレは頭上に落ちてきたりしない。」
「ここ避雷針あるから大丈夫だよ。」
ぎゅっと、私と彼女が近くなる。彼女は私の手を取って、きつく握る。私はいつか彼女がそうしてくれたように、彼女の手を親指で撫でた。
「真莉、朝まで一緒にいてね。」
「……うん。」
彼女もかわいい所があるんだなぁと、いや彼女は全体的に素敵なんだけど、弱い所もあるってわかると安心した。彼女の新たな一面を知って、いい夢が見られそうだと思い、目を閉じた。
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ほとんど眠れなかった。彼女と密着して眠れる方がおかしい。それはそうと彼女は朝まで身じろぎひとつせず、とても寝相がよかった。私も動けなかった。腰が痛い。
「おはよ、真莉。」
「……おはよう。」
彼女が指を解いて、手汗が気になるのかぶんぶん振る。彼女がベッドから降りて、私は仰向けになる。
「昨日はありがと、何かして欲しいことある?」
「何でもいいの?」
「私に出来そうな範囲でね。」
「……おはようの、ごめん、何でもない。」
酔った時と寝起きは、何が起こるかわからない。主に自分の口が。何を言いかけてるんだ、最近やっと目を見て話せるようになったばかりだというのに。
彼女は何を思ったのか口端を吊り上げて、放り出された私の手を取る。ぬるりと絡み合って、それに気を取られる。あっと言うのは少し遅くて、ぷに、と寝起きの熱い唇が触れ合う。わざと音をさせて離れた彼女は、意地悪そうな笑みのまま舌舐めずりをする。
「もっと?」
「…………庵のそういうとこ……。」
「嫌い?」
「……嫌いじゃない。」
「そ。」
微笑んだ彼女は起き上がった勢いで指を解いて、そのまま部屋を出てしまった。ちょっと残念に思う自分に、欲張りになったなと感じる。心臓がばくばくして、二度寝どころじゃない。今のことだけでも充分に重大事件なのに、雷が苦手な彼女。こしのほそいかのじょ。むねのおおきいかのじょ。
……一旦落ち着こう。私の日常は、本当にこればっかりだった。
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