ヒカゲモノ
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
あの人。
初夏。熱された空気が物理法則によって上昇し、高層階の住人を苦しめ始める季節。私はそんな熱気から少しでも逃れようと、道路側の窓を開けた。日も高くなってきたこの時間は、通勤ラッシュも過ぎて比較的静かだ。マンションの住人も大体が出払っている。人通りの少ない道路を眺めていると、向かいの建物から誰かが出てくるのが目に入った。どこかの会社の社員寮だったか、向かいの建物もこの時間には人が少ないはずだ。そんな建物から出てきた彼女はこの季節には少し暑そうな格好をして、案の定暑いのか胸元をバタバタしている。チョコレート色の髪を無造作に流して、それが様になっていた。
「綺麗な横顔。」
口に出ていたことに驚く。誰に聞かれるわけでもないのに恥ずかしくなってしまい、頬に手を当てて俯く。熱い。そのくせ手は氷のように冷たい。上がり症と冷え性が相互扶助でもしているのか、と疑いたくなる。頬の熱が手に移った頃には彼女は居なくなっていた。
「綺麗。」
彼女は私と違って強いんだと思う。どうしたら強くなれるの。答えの無い問いかけを虚空に向かって吐き出すしかできない。すっかり昇り切ってしまった太陽が、眼の中に緑色の残像を刻む。日向から日影へ逃れるように、私は窓のそばを離れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目覚めると時計の針は午前6時を指していた。昨日は作業をしながら寝てしまったようで、ペンを握ったままだった。座卓の上にとりあえずペンを置いて、緩慢な動作で立ち上がる。床で寝ていたせいか背中と腰が痛い。電気を消して、籠った空気を入れ替えようと窓を開ける。何気なく道路の向こうに目をやると、あの人が向かいの寮から出てくるところだった。私は足を止めて窓枠に肘をつく。あの人はゴミステーションまで歩いて行って、ゴミの確認をしているようだ。確認が終わるとエントランスに戻っていく。ポストの中身を出して、そこから先はよく分からなかった。
「管理人さんか何かなのかな。」
人と関わりを持ってもろくな事がなかった私からすれば、管理人という職業は自分と違う人種が就く職業といったイメージだ。このマンションに越して来てもうすぐ半年が経つが、隣の部屋の住人にすら覚えられていない自信がある。職業柄家にこもりっぱなしになるのは仕方ないが、それ以上に人と接する機会を出来るだけ減らそうとする自分の弱さが外出を思いとどまらせる原因だった。買い物に行くにしても人の少ない時間帯を狙って、服屋で話しかけられるのを恐れて通販に逃げ、仕事上のやりとりも総てメール。
「このままじゃだめだって事はわかってるけど。」
じゃあ明日からタイムセールに出陣して、服屋の店員さんと仲良く話して、打ち合わせもカフェでできるかって言うのとは話が別。
「……勇気をください。」
ズルズルと手の平の上を頬が滑って行き、窓枠に顎が着地する。
「…………痛い。」
頭上を回る星にも縋りたい気持ちだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
手紙を書こうと思ったのは本当にちょっとしたきっかけだった。部屋の片付けをしている間にレターセットを見つけた事と、向かいの寮とこのマンションの番地がひとつしか違わないと知った事。運良くあの人が読んでくれたらいい、そのくらいの気持ちで始めた事だった。私はあの人の住んでいる部屋はおろか名前も知らない。それでも、あの人には力がありそうだと思った。少なくとも、昼夜逆転した様な生活を送っていた私が、規則正しい生活をし始めるくらいには。
『真莉はさ、ひとりで抱え込みすぎなの。』
高校の時の唯一の友達がそう言っていた。今は何処にいるかも分からない。連絡先も知らない。彼女にとっては数いるうちのひとりだったのかもしれないけど、私にはたったひとりの友達だった。今の私は彼女が残した言葉に縋る事が精一杯だ。
行間の広い便箋に苦手な文章を書き綴って、薄い黄色の封筒に入れる。何かの拍子に剥がれてしまいそうなほど薄く糊付けする。
「届いて。」
あの人に。あの時の彼女みたいに、私に言葉をちょうだい。一言でいい。それで充分だから。充分に贅沢な事だから。月も無い闇が、そっと窓から染み出してくる。それを見てしまわない様に、目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
チャイムが鳴る。チャイムが鳴るような心当たりは通販くらいだが、最近頼んだものはない。何だろう。誰だろう。緊張で冷や汗がにじむ。
ドアホンの受話器を取る。声が裏返った上に不自然な応対になってしまった。相手の人は声が低い。でも男の人ではない気がした。
玄関まで出る間に廊下に放置してあった段ボールを奥の部屋に隠す。物置からはみ出ていた掃除機のヘッドを突っ込む。
念のためチェーンを掛けたまま扉を開け、そこに立っていた人物に面食らう。
あの人だ。
チェーンを外して話を聞いていると、手紙に醤油をこぼしたと言う。手紙に気付いてもらえて嬉しい反面、中身を読まれていない事にがっかりする。こうして訪ねて来てくれる事がもはや奇跡に等しいのだが、もっと話したいと思ってしまう。自分がどんどん欲張りになっていく様な気がして怖い。
近くで見るあの人は、遠くから見るより遥かに綺麗だった。帰り際に見せた横顔は、どんな言葉でも形容できない。もっとその横顔を眺めていたい。彼女がエレベーターに乗る、扉が閉まるその瞬間まで、私は彼女を見つめていた。
「私を欲張りにする、罪作りな人。」
火照った顔を冷まそうと窓を開ける。道路の向こうで、同時に窓を開けた彼女と目が合う。不意の事に心臓がペースを狂わされる。見つめていると彼女が会釈をする。私も会釈をした。彼女は窓から離れていったが、私はなんだかもったいない気がして、しばらく窓のそばに立っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
あの人から手紙が来た。
ポストを覗いた私は思わずその場で悲鳴をあげそうになった。宛名が私で、差出人があの人なのだ。恐る恐る封筒を裏返す。差出人の名前は『緋田庵』。アンさんかイオリさんかは分からないけれど、一歩前進した事は確かだ。
エレベーターを待つのももどかしく、足踏みしてしまう。扉が開いて、中から出てきた人とぶつかりそうになる。
「あっ、ごめんなさい!」
「おはよう、元気だね。何かいい事あったかい。」
「おはようございます。すっごくいい事ありました!」
「そりゃ良かったね。」
テンションがいつものそれとは違うせいか、別人のように話せる。会釈をしてエレベーターに乗り込み、震える手でボタンを押す。知らずにやけそうになる顔を必死で引き締める。嬉しい。生きてて良かった。もうあの人じゃないんだ。緋田さんなんだ。
扉が開くやいなや飛び出して、気持ちに同調するように小走りになる。家に入ると窓の部屋に駆け込み、もたつく手で封筒を開ける。便箋に並ぶ字は少し崩れていて、親しみを感じた。内容は半ば苦情だ。それでもいい。彼女が、私に、手紙をくれたと言う事実だけが重要だ。
「何て返事しよう。」
今ならどんな無謀な事にだって挑戦できる気がする。彼女に会いたい。お茶に呼んでしまおうかな。ちょっとおこがましいかな。彼女に会う事だけを想像して、気の向くままペンを動かす。癖で薄く糊付けした封筒を、まぶたに乗せてみる。薄い黄色が目に染みてくる。深夜にポストへ投函してこよう。今日はいい日だ。
窓を開ける事もすっかり習慣になった。彼女を想うのが生活の一部になっている。もう彼女が居ない世界なんて考えられなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「返事来るかな。」
いざ投函する段になって一気に目が覚めた。彼女は別に私に好意があって手紙をくれた訳ではないし、目が合ったら会釈くらいはするけどそれも義務感からかも知れない。彼女が私の事をどう思っているかなんてのは全く不透明なのだった。彼女に会えるのは嬉しいが、彼女に無理をさせるのだったら、それは嫌だ。彼女に会いたい。私の欲で彼女を振り回す事はしたくない。
堂々めぐりの議論に終止符を打ったのは窓を開ける音だった。寝苦しくなった住人の誰かが開けたのだろう。私はびっくりしてしまって、思わず手に持っていた封筒をポストに突っ込んでしまった。そして逃げるようにその場を離れる。入れてしまった。期待と恐怖がせめぎ合う。返事は来るだろうか。不審に思われないだろうか。嫌われないだろうか。そもそも嫌われるほど好かれていたのか。
「分からない!」
部屋に戻った頃には肩で息をしていた。入ってきたままの勢いでふらふらと窓へ駆け寄る。満月の光が、冷たく差し込む。その光で火照りを冷ますように、目を瞑って風に当たる。
「青い。」
明日が来れば、彼女がポストを覗けば、手紙を読めば、総てが決まる。どんな結果に終わってもいい。それは他でもない彼女が決めた事だから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「頭ではそう思っても、体は正直。」
全く眠れなかった。二時頃妙に冴えてきた目を頼りに仕事なんか始めたのが更にいけなかった。今度ブルーライト眼鏡買おう。四時頃おもむろに掃除を始め、掃除機を使うところ以外は完璧に済んだ。思い出したように鏡を覗くと、案の定目の下に濃いクマができている。誤魔化しきれるだろうか。寝癖の心配はないが、それと引き換えてもお釣りがくるくらい酷い顔だ。
「初めてまともに会えるかもしれない日なのに……。」
会えないかもしれないけど、と呟いた途端惨めになってきた。涙がにじむ目をこする。
「……当たって砕けろ。」
頬をつねって気合いを入れる。もともと大き過ぎた賭けだ。後悔だけはしたくない。半分死人めいていた顔が、少しだけマシになる。微笑んでみる。だんだん幸せな気がしてきた。
気分が回復したところで、朝食には軽めにシリアルを。牛乳を切らしていたのでそのままザクザク食べる。糖分が染み渡る。体も元気な気がしてきた。食べ終えた皿を片付ければ、あとは待つのみ。不備がないか確認して回る。
「掃除機かけなきゃいけないんだった。」
手早く掃除機をかけたら、物置に仕舞おうとしたところでチャイムが鳴る。
「ええっと、緋田、です。」
飛び出しそうになる奇声をどうにか抑え込む。掃除機を突っ込み、玄関に急ぐ。その途中で、表札を『チダマリ』にしたままだったと気づく。一瞬固まるが、最初に手紙を届けにきてくれた時も見てたはずだと思い直して諦める。
彼女を目の前にして、もう動悸が治まらない。桜色のパーカーというチョイスが意外に思えたが、彼女のチョコレート色の髪によく映えていた。正直に言うと、彼女が何を着ていても私はただ単に褒めちぎるだろう。
紅茶を出して自分も一口飲むとなんだか変に安心してしまって、意識が途切れる。彼女の呼ぶ声が聞こえて現実に帰ってくるも、寝不足と幸せな気持ちが相まって完全に覚醒できない。
「昨日は遅かったんですか。」
「それなりに……。締め切り近いので。」
締め切りは、徹夜しなければいけないほど近くはない。あなたの事を考えていて眠れませんでしたとはさすがに言えないので、適当な事を言って誤魔化す。せっかく彼女が家に来ているのに、彼女が私に話しかけてくれているのに、眠気が邪魔をして頭が回らない。
結局、彼女の前で寝顔を晒す事になってしまった。それでも彼女は私が起きるまで待っていてくれて、申し訳なさで泣きそうだった。それから少し話をして、お茶会の約束を取り付けて、彼女は帰っていった。次は絶対に起きている。見送りから戻った私は桜色のパーカーが部屋に残されているのに気づいた。彼女のものだ。
「……私、これ枕にして、た?」
くっきりと残った頭の形。背筋を冷たいものが走る。あろう事か彼女のパーカーを枕に。
速攻で洗濯機を回した事は言うまでもない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
彼女がお土産を持って来てくれた。中身は指輪だった。彼女が、私の左手の薬指に、指輪を嵌めてくれた。盛大に勘違いしてもいいだろうか。もう人生悔いはない。欲張れば言いたいことは山ほどあるのだけど。
彼女の横顔が好き。真莉って呼んでほしい。言いたい事が沢山ありすぎる。彼女の正面顔は直視できない。
「私のことも、庵でいいです。」
ああ、イオリさんなのか。勢いよく頭を上げてしまう。彼女と目が合う。どきどきする。
「はい、庵、さん……。」
「よくできました。」
彼女が私の頭を撫でる。心臓が破裂しそうだ。彼女がこんなに近い。顔が上げられない。次に目が合ったら気を失ってしまいそうだ。
「真莉さんだからじゃないですか。」
やめて、勘違いさせないで。彼女はそういう意味で言ってるんじゃない。それなのに体は言う事を聞かなくて。
確信した。彼女は天然のプレイガールだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
知らないうちに彼女と一緒に仕事をしていたらしい。嬉しい。運命を感じない方が難しい。
パフェを食べて、彼女を家に呼んで。また寝てしまったのは惜しい所だけど、彼女が膝枕をしてくれていたからもう一度寝てもいいと思った。
毎日でも彼女に会いたい。叶わない事だと分かっていても、そんな欲が口をついて出てしまいそうになる。言葉にする代わりに、深く溜息を吐いた。
彼女は私の事をどう思っているんだろう。友達のひとり、なのかな。親友くらいには思われてる? 分からない。訊く勇気も、まだない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
チャイムが鳴る。今日は誰かが来る予定はなかったはずだけど。ドアホンを取ると彼女だった。仕事道具をさっと片付けて、ドアを開ける。
「今日も何もないけど。」
「真莉さんが居てくれるだけでいいよ。」
耳を疑う。ちょっとソレもう一回言って欲しい。
「ちょっと……どういう意味で言った? 今。」
頬が熱くなる。彼女は苦笑いだ。勘違いだと解ってさらに熱くなる。
彼女を座らせて話を聞くと、彼女は今の部屋の契約が切れて、新しい家がなくて困っているという。お家探しは私より不動産屋の方が頼りになると思うが、何にせよ彼女が最初に私を頼ってくれて嬉しい。とは言え、大した解決策を思いつかないので虚しくなってきた。
「……じゃあ、ここ、住む?」
散々考えた末の結果がこれだった。
「無理無理、家賃お高いでしょ?」
彼女は顔の前でパタパタと手を振る。
「そうじゃなくて、その……。」
最大限断言を避けたら伝わらなかった。ストレートに言い切る勇気がない自分がもどかしい。
「違うの?」
彼女はキョトンと目を丸くする。私と一緒に住むなんて、彼女は嫌だろうか。
「この部屋、に……住む?」
言ってしまった。彼女は目を丸くしたまま二度瞬きをした。言ってしまったことの重大さに気づいて、頭が沸騰する。彼女が口を開くのが怖い。否定されたらどうしよう。私はなるべく彼女の顔を見ないように俯いた。
「………………えっと、いいの?」
彼女の反応は鈍い。
「…………嫌?」
怖い。続きなんて聞きたくない。それでも口は勝手に喋る。
「そんなことないけど、ないんだけどさ……? でも……。」
「でも何? ……嫌ならそう言って。」
違う。こんなことが言いたいんじゃないの。
「ちょっと、何拗ねてるの。嫌じゃないって。」
「嘘、何が不満なの?」
本当? そう訊きたいだけなのに。
「不満なんてないから、顔上げてよ。」
「嫌。」
ごめんなさい、今の顔はとても見せられない。彼女の目を見たら最後、決壊してしまいそうだ。
「どうして、ねぇ。」
「嫌。」
彼女が眉根を寄せる。ああ、彼女を不愉快にしてしまった。謝りたい。ごめんなさい。なのに。
「……真莉。」
彼女の温かい手が、私の凍てついた手に触れる。
「聞いて。」
「嫌。聞かない。」
ごめんなさい、もう放っておいて。全部忘れて。否定しないで。ずっと憧れてだけいればよかったんだ。会いたいなんて、話したいなんて、触れたいなんて。思わなければ良かったんだ。そうすればこんなに苦しむこともない。辛そうな彼女を見ることもない。今の彼女と私はあまりにも遠い。
「じゃあ勝手に言うけど、私は真莉みたいに料理出来ないし、家賃だって半分払えるか怪しいし。」
「やめて。」
慰めならよして。優しくしないで。彼女の指が、手の甲を撫でる。
「何より真莉が本当に私といて幸せなのか分からない。」
「っ……。」
胸の奥がツンと痛くなる。彼女の声色が、彼女の真剣さを物語っていた。彼女を疑っていた自分が許せなくなる。ちょっと否定されたくらいで彼女を疑って、彼女の気持ちには目を瞑った。喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に噛み殺して、それでも溢れてくる涙を何度も拭う。熱い、彼女の手が離れる。力の入らない手で彼女の手を捕まえる。何かに触れていないと、壊れてしまいそうだった。彼女の熱い手が、私の肩を包む。彼女の鼓動が聞こえる。
「……ごめん。」
「…………嫌。許さない。」
彼女が私を欲張りにした。
「…………ごめん。」
「……そんな事言われなきゃ分からない。」
でも、欲張りになってしまったのは私。
「ごめん、真莉。」
「全部言って、考えてる事全部。」
彼女が微笑むのがわかる。
「真莉、ごめん。……幸せ?」
「幸せだよ。私がどれだけ庵の事想ってるか知らないでしょ。」
彼女の音が少し速くなる。
「うん。真莉も言ってくれたら分かるよ。」
茶化すように言ったその言葉は、照れ隠しだといい。
「私の悩みも聞いてくれる?」
「うん。」
色々とすっ飛ばして、もう言ってしまおう。
「……苗字ちょうだい。」
「ひだまり?」
「……だめ?」
「似合ってるよ。」
髪を撫でる彼女の手が、耳に触れる。もう、どちらの熱かも分からない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「なんで真莉はそんなに可愛いの?」
一緒に暮らし始めて一週間が経った頃、朝食の席で彼女が言い放った言葉がこれだった。冗談だろうが微妙に顔をしかめている。
「私は庵の方が綺麗だと思うんだけ、ど。」
言っている途中で恥ずかしくなって俯く。この癖がどうにも治らない。彼女は彼女で難しい顔をしている。
「使ってるモノなのかなと思って、一週間真莉のシャンプーと洗顔料を使ってみたのね。」
「……えっ、そうだったの?」
「やっぱり気づいてなかったか。」
彼女が顔を寄せてくる。近い。
「ほら、真莉フレーバー。」
「ふ、フレーバー……本当だ。」
「つまりシャンプーは関係ないと。」
「……庵は、そのままでいいっ、てば。」
「あーもー羨ましいよ真莉ぃー。」
「だから、庵は……もしかして言わせてる?」
彼女はにやっと口端を吊り上げる。
「ちょっとは面白かった。」
「ちょっとって。」
「残りは内緒。」
「何それ?」
彼女が眩しそうに目を細める。彼女が嬉しそうなら、それでいい、かな。
「真莉のごはんがおいしいってこと。」
「それはよかった?」
話がひらひらと飛ぶ。蝶のように逃げられて、でも捕まえようとは思わなかった。意味もなくフォークを回す。メープルシロップの染みたフレンチトーストが、じんわりと体を温める。胃袋がっちり。女性の胃袋を掴んで効果はあるのだろうか。あったらいい。
「今だから言うけどさ、赤兎。あれって真莉をイメージしたんだと思うんだよね。」
「そうなの? あの子、庵の作品だったのね。」
「買ってきたと思った?」
ふふふ、と彼女が笑う。
「だって、職業知らなかったもん。」
プロの作品なのだから買ったと思って当然じゃないか。職業を知ってからも、なんとなく買ったモノだと思っていた。
「それもそうか。」
「庵のお手製ならなお嬉しい。」
「一点モノだからね。」
世界にひとつしかない。一点モノ。なんていい響き。
「私も何かあげれたらいいんだけど。」
「んー、こうしてごはん作ってもらってるし、充分過ぎるくらい。」
彼女は言い終わらないうちにもごもごとフレンチトーストを頬張る。リスみたいだ。
「あ、そうだ。」
さっき頬張った分はもう喉を通ったのか、すっきりした顔で彼女は言う。
「真莉、私の名刺描いてよ。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
パソコンを起動する。ペンタブを繋ぐ。描画ソフトを開く。新規キャンバスを開拓する。そして考え込む。
「何描こう。」
名刺、だから背景はシンプルな方がいい。文字が読みやすい配色で、それでいて目を引く。今までたくさん絵を描いてきた。だけど名刺を描くのは初めてだ。自分はイラストカードを名刺代わりにしていたし。でも今回の主役は絵じゃない。
「……何描こう。」
良くも悪くもこの名刺が彼女の沽券に関わる。頭皮を掻きむしりたくなる。後にも先にも私をここまで追い詰めたお願いはないだろう。パソコンをスリープ状態にして立ち上がる。
「庵、紅茶飲む?」
ひとまず落ち着こうと思った。
紅茶のカップから口を離した彼女が頬杖をつく。私はまだ彼女の正面に座ったことがない。隣にいるだけで顔が火照るのに、彼女を真正面から見ようものなら爆発する。
「真莉さ、あんまり考えなくていいよ。名刺。ササッとでいいから。」
「でも、ちゃんとしないと。」
「私は名刺が欲しいっていうか、真莉が私に描いてくれた絵が欲しいだけ。」
「うっ、それならなおさら。」
「考えすぎてもなんだし、気分転換、気分転換。」
「そう?」
「というわけで、出掛けよう。」
「……っえ?」
「だから、出掛けよう。」
彼女が、出掛ける。いってらっしゃい? え、私と? 彼女と私?
「えっと? それって、でででデート?」
「一緒に住んでるのに何驚いてるの。」
彼女が私の耳を引っ張る。熱くなっているのに気づかれてしまいそうで気が気でなかったけど、もう気づかれているような気もして、頭がこんがらがってくる。
「そ、れもそうね。」
「決まり?」
「……きまり。」
「じゃあカップは私が片付けるから、真莉はとびっきりおめかししてくるよーに。」
彼女が私の鼻先を指で突く。ぶひ、と言いそうになるのをすんでのところで堪える。キッチンに向かう彼女の残り香が私と同じで、それが少しくすぐったかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「じゃーん。」
彼女が向かった場所は、天井の蛍光灯が眩しい、倉庫のような店だった。
「材料の仕入れ?」
「そ。もー、見てるだけで高まるよね!」
「へぇ。」
私が画材に対して感じるモノと同じだろうか。私は基本デジタルで作業をしているけれど、色とりどりのマーカーや絵具を目の前にすると気分が高揚する。好きな色があればなおさらだ。
「着色料のコーナーとかは真莉も楽しいかも。」
「なら見てこようかな。庵は粘土?」
「うん、決まったら探しに行く。」
「了解。」
一旦彼女と別れて、着色料コーナーを目指す。天井から垂れ下がった看板によれば、もう二ブロック先のようだ。所狭しと並ぶ棚に体をぶつけないように歩くうちに、着色料コーナーのカラフルな刺激が強まってくる。棚には大小様々な瓶が並んでいた。
「食紅みたい。」
最初に出た感想がそれで、もう食紅の瓶にしか見えなくなる。瓶をひとつ手に取ってみると、色鮮やかなのは蓋だけで、中身は黒っぽい。これだけ濃ければ一滴やそこらで色がつくのも頷ける。絵具とはまた用途が違うんだと、妙なところで感心した。光に透かすと若干本来の色が見えて、そんな仕掛けめいたところも面白い。
「真莉発見。」
「ん、決まった?」
「バッチリ。気に入った色とかある?」
「そうだなぁ、これとか?」
「いいね、買い。」
「買うんだ!」
「新しい色に挑戦したくて。じゃあ会計して来るから待っててね。」
「はーい。」
ライムグリーンの瓶を受け取った彼女を見送って、これで外出は終わりなのかと少しだけがっかりする。デートってもっとこう、違うんじゃないか。
「仕事が絡まない、買い物、とか。」
口に出してから、なんだか彼女はそういったものと無縁な気がして、首をひねる。せめて外食、とか。彼女は何が好きなんだろう。家では気を使ってか何でも美味しいと言ってくれて、嬉しいんだけど、ちょっと不安になる。
「お待たせ。」
「おかえり。」
「次行こうか。」
「次?」
「映画でもどう?」
買った物を背負っていたリュックに仕舞い込みながら、彼女が視線をよこす。私は一も二もなく頷いていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ほ、ホラーだとは、聞いてなひ……。」
「ごめん、もしかして苦手だった?」
「庵、私帰るね……?」
「待った待った。大丈夫だって、手握っててあげるから。」
「う……絶対離さないで。」
館内の空調と緊張とですっかり冷え切った手が、彼女の手に包まれる。にぎにぎとその手を確かめて、少し安心する。スクリーンに映る広告を眺めながら悶々とする。今から寝てしまえば怖くない? でもそうしたら後で彼女と感想を言い合えない? せっかくお金を払ったんだからちゃんと見ないと? そうこうしているうちに本編が始まってしまう。彼女の手を潰れるくらいに握って、恐怖に備える。彼女は私を落ち着けるように、親指で手の甲を撫でてくれた。
映画の内容は言わないでおく。思い返すのも怖い。悲鳴も音にならないくらいで、もともとホラーが苦手な身としては金輪際出会いたくない代物だった。二時間近くも彼女と手を繋いでいられたという事実が霞むくらいだ。私がここまで衰弱しているというのに彼女はケロリとしていて、どこからその元気が出てくるのか切実に問いたい。
「私、もう庵とは映画に行かない……。」
「そんな! ごめんって、今度から予告するから。」
「此の期に及んでホラー見る気だ?」
「そろそろ夏だもの。」
納涼のつもりだったのか。涼どころか冷や汗が乾いて寒いくらいだ。嬉々として映画の感想を語る彼女が、一気に遠いものに思えた。
「別の人と行けばいいじゃない。」
「真莉以外と行く気はない。」
「なんで?」
「友達いないから。」
彼女の手が髪を梳く。微妙に噛み合わない会話に首を傾げながら、照れ隠しだったら嬉しいな、と思う。
「コンビニ寄っていい?」
「うん。」
結構遅い時間になってしまったので外食チェーンもスーパーも開いてないだろう。切らしていた牛乳は買っておきたい。
「何買うの?」
「牛乳。」
「じゃあ明日の朝はカフェオレがいい。」
「ん。」
照明が眩しいコンビニで牛乳を買って、街灯も必要ないくらいに明るい夜を歩く。
「持つよ。」
「あっ。」
牛乳の入った袋を彼女がつかむ。
「だめ、私が持つ。」
彼女の手から袋を奪い取る。
「あぁっ。」
彼女が負けじと袋を引き寄せようとする。
「もう。」
袋を持つ彼女の手に指を絡ませる。彼女が驚いたようにこちらを見るけど、私は目を合わせない。正確に言うなら合わせられない。彼女は隠すように手を引き寄せて、指を絡め返す。綺麗に組み合った指が解ければ、袋が落ちてしまう。家に着くまで、ずっと手を繋いでいなければならない。
「私達、変だよね。」
「変だね。」
数秒顔を見合わせて、俯く前に目を閉じて笑う。彼女も笑っていたんだと思う。
「私、知ってるんだよ。」
「何を?」
「庵、私が寝た後にお酒飲んでるでしょう。」
「……なんで気づいたの?」
「冷蔵庫の奥に隠してるの、バレバレ。」
「うん、そんなことだろうと思った。」
「どうして内緒にしてたの。」
「真莉がお酒嫌いなのかと思って。料理酒も使わないじゃない。」
「別に嫌いなわけじゃないよ。料理酒使わないのは、料理からお酒の香りがするのが苦手なだけで。」
「つまりお酒苦手ってことでしょ。」
実を言うとそんなに得意ではないのだけど、彼女が酔っている姿を天秤にかけると、苦手なお酒を飲むことくらい何でもない。
「違うもん。とにかく、今日の酒宴は私も混ぜること。」
「今日飲むの? いいけど、無理しないでよ?」
「無理じゃない。」
勢い膨らませた頬を彼女が突く。ぷしゅっと空気が抜ける。
「あと、梅酒しかないよ。」
「何でもいい。」
彼女は梅酒が好き、と脳内にメモした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
手汗で何度か袋を落としそうになりながら、どうにか家に着いた。牛乳を冷蔵庫にしまって、ついでに奥に隠れている梅酒の缶を引っ張り出す。おつまみになりそうなモノは、ベーコンくらいしかない。梅酒とベーコンは合いそうにないので諦める。結局缶だけを持って戻って来た。
「本当にバレてた。」
「味噌の裏にあったら、普通気づくよ。」
「参りました。」
缶を座卓に置いて、彼女の隣に座る。彼女は待ってましたとばかりに缶に手をかけて、プルタブを倒す。私もそれに習って缶を開ける。缶の口から覗く水面で気泡が細かく弾けていた。
「かんぱーい!」
「か、かんぱーい。」
彼女が掲げる缶に恐る恐る自分の缶をぶつけて、中の液体を流し込む。口の中でふわふわと弱い炭酸が踊って、アルコールの香りが鼻から抜ける。
「梅酒だー。」
「梅酒だもん。」
頭が熱くなってきて、中身のない会話が湧き出てくる。どういうペースで飲めばいいのかわからなくて水面を見つめたり、こくこくと動く彼女の喉が面白くて、横ばかり見ているうちに彼女は飲み終わってしまった。
「真莉、いらないならくれていいよ。」
「えっ。」
「さっきから飲んでないから。」
「もう一本持ってきたら?」
冷蔵庫の方向を指差しながら言うと、彼女は口端を吊り上げる。
「それがいい。」
言うが早いか彼女は私の手ごと缶を掴んで、飲んでしまった。間接キスだ。どうしよう。
「……庵、酔ってる?」
「酔ってる。」
言い切った彼女の顔は赤い。なんだ、庵だってそんなに強くないじゃないか。ちょっと笑えてきた。
「まだ飲む?」
「む。」
肯定か否定か曖昧だけど、肯定と受け取って冷蔵庫に向かう。冷えた缶が手に心地よい。私もある程度回ってきているみたいだ。
「はい。」
「あんがと。」
缶を彼女に手渡して、さっきよりくっついて座る。彼女は早速缶を開けている。私もプルタブを倒して、気持ち豪快に飲む。ほかほかと体があったかくなってきて、心音がほんのり速くなる。飲みかけの缶を置いて、床についている彼女の手に自分の手を重ね、私の方が熱いことに驚く。
「私、変だよね。」
「私も変だよ。」
飲み終えた缶を置いた彼女がこちらを向く。半目の彼女は私の手の下から手を引いて、返す刀で私の肘を打つ。まんまとバランスを崩した私は、そのまま彼女の胸に倒れ込む。遅れてついてきた彼女の手が背中に着地する。
「残ってるの飲んでいい?」
「私に飲ませる気ないのね?」
「へへ、当たり。」
今の彼女は相当ゆるい顔をしているのだろうけど、彼女が離してくれないので見えない。彼女は本当に私の分を飲んでしまったようで、盛大に息を吐く。
「ね、真莉。」
「なに? もう一本?」
「楽しいね。」
彼女の手が緩んだ隙に顔を上げる。半目だった彼女は三分の一目くらいになっていて、もうほとんど閉じている。赤ら顔の彼女の笑顔はいつもと少し違って、幼さが見え隠れしていた。
「……キスしていい?」
どうしていきなりそんな言葉が出たのか解らない。私ももしかしたら相当酔っているのかもしれない。
「いいよ。」
言いながら彼女の手が私を押さえつける。
「本当?」
再び彼女の腕から抜け出しながら、彼女の顔を見上げる。笑っている。半目に戻って、口端を吊り上げて。
「真莉は疑うのが好きだ。」
挑発するような言葉にムッとして、彼女の肩を押す。彼女は簡単に倒れて、それでも笑顔を崩さない。
「無条件に信じるのって、怖いよ。」
それでも信じているつもりでいた。
「私は真莉のこと信じてるのに?」
「じゃあ何されてもいいの?」
「モノによるかな。」
「ほら、全部じゃない。」
いちいち確認しなきゃ安心出来ない。
「限りなく全部に近いよ。」
「何だったら嫌?」
「真莉に殺されること。」
「殺されるのは誰でも嫌でしょう。」
「そうじゃなくて、真莉に殺されなきゃいけないっていう、そんな状況になるのが嫌。」
「私は庵を殺したりしないよ。」
「わからないよ。」
「庵だって疑うんじゃないの。」
倒れたままの彼女に覆い被さる。鼻が触れ合う距離で見つめ合う。彼女の顔にかかった髪を払って、そのまま噛みつくように濡れた唇を重ねた。彼女の柔らかい唇がゆっくりと動く。少しだけ顔を離して、彼女の手を掴む。
「まだ私の事信じてる?」
「どうだと思う?」
口角を上げる彼女に、笑い返す。お互いの息がかかる。彼女の唇をつうと舐めて、もう一度唇を合わせる。唇の隙間から舌を差し込んで、触れた彼女の舌をそっとなぞる。
「んっ……。」
彼女の胸がとくんと跳ねる。息をするのも忘れそうになる程に彼女しか見えなくて。このまま時が止まって終えばいい。そう思うのに、彼女の指が、私の掌を掻くように動く。それがくすぐったくて、唇を離す。ふたりして深呼吸する。
「……ちょっと信じられなくなった。」
「嘘吐き。」
最後に啄むように口を吸う。名残惜しいけれど体を起こして、飲み終えた缶を抱える。
「おやすみ。」
「……おやすみ。」
彼女は寝そべったままでひらひらと手を振る。缶を抱えたまま小さく手を振って、シンクに缶を置き、そこで力尽きた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
朝目が覚めると、なぜかキッチンで横になっていた。のそのそ起き上がると、背中が痛い。硬い床の上で寝たのなら当然だが、どうしてこんな所で寝ていたのだろう。シンクには梅酒の缶が四本。水洗いした様子はない。庵が飲んだ後片付けなかったとはめずらしい。
今朝はカフェオレのリクエストをもらっていたのでコーヒーを淹れる。冷蔵庫から牛乳を出した所で、彼女が起き出してきた。
「おはよう。」
「……おはよ。」
彼女は私から牛乳を受け取ってまな板の上に置くと、私を壁に追い詰める。壁に片手をついて、逃げ場をなくす。
「ちょ、なになになに……!」
残った手が私の顎を捕らえる。くっと上を向かされて、嫌でも彼女と目が合う。顔が近い。そして一瞬だけ唇が触れ合う。顔を離した彼女は少し不機嫌そうだった。そういえば目の下にはクマが刻まれている。寝不足で、実はまだ完全に起きてない? 壁についたままの手をちらちら見ながら目で訴える。彼女は目を細めて、それも大層気怠そうに、私を見る。
「昨日のお返しだ馬鹿。」
「えっ?」
「もう私、真莉とはお酒飲まない。」
「ちょっと、どういう事?」
「私、あの後眠れなかったんだから。」
「昨日って、昨日私が何かしたの?」
「……覚えてないの?」
「昨日は買い物して映画見ただけでしょう。」
「その後。」
「コンビニで牛乳買った。」
「その後。」
「その後? 寝た?」
「……綺麗に忘れてやがる。」
「なに、何したの私?」
彼女はあからさまに目を逸らして、言い難そうに口をモゴモゴとさせる。口を開きかけて、閉じて、をしばし繰り返す。ようやく彼女は口を開いて、数秒固まって、言った。
「…………………………舌入れられた。」
「…………。………………えっ。」
私が? 私が彼女の? 舌? クエスチョンマークが脳内で大繁殖する。さっき彼女が私にキスしたのを思い出して、顔がカッと熱くなる。お返しって、お返しって。私が昨日、彼女にキスしたの? しかも舌?
「全っ然覚えてない……。」
「あれだけドキドキさせといて卑怯な。」
「何してるの昨日の私……。」
「酔ったらもう別人みたいなんだもん。」
「酔ってたの、私?」
「缶、流しにあるでしょ。」
シンクに転がっていた梅酒の缶。庵がひとりで飲んだのだと思っていた。
「本当なの、それ?」
「真莉は疑うのが好きだ。」
彼女が眉間に皺を寄せながら言う。どこかで聞いたような気がする。昨日、聞いたような。彼女が、挑発するような。
「思い出した?」
「……ぼんやり。」
彼女と昨日、梅酒を飲んで。それから。
「……あぁ。」
大体思い出した。気がする。確かに私は彼女にキスした。かもしれない。
「ごめん。」
「許す。ただしコーヒーは淹れ直すように。」
彼女が手を離して、キッチンをあとにする。淹れたてだったコーヒーから立ち上っていた湯気はもう見えなくて、牛乳パックの表面は結露して水滴がついていて。私は壁づたいにずるずると座り込んだ。火照った顔を覆う手は冷たい。
「あ、ちゃんと名刺も描いてよ?」
ひょこっと顔だけ出した彼女に解りやすくびっくりして、高速で頷く。それを見た彼女が満足そうに去って行った。
「カフェオレね。」
壁づたいにずるずると立ち上がって、冷めたコーヒーをボトルに移す。ボトルと牛乳は冷蔵庫に入れて、新しくお湯を沸かす。
「カフェオレ。」
とりあえず落ち着こうと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「いい感じだね。」
「そう? よかった。」
彼女の名刺は、指輪を嵌めた手がカフェオレのカップを持っている絵だ。思いついたらあとはサクサク進むもので、案外はやく描き終えられた。
「庵の『気分転換』のおかげ。」
「……おぅ。」
彼女が赤面する。いつもは私が赤くなりっぱなしだから、ちょっとだけ気分がいい。
「たまには一緒にお酒飲みたい。」
「……年に一回なら許す。」
「もうひと声。」
「三カ月に一回。」
「もうひと声。」
「月に一回……。」
「やった。」
まだ赤みの引かない彼女の頬をつつく。彼女は身を引いて二撃目をかわす。指を追随させて、彼女から逃げ場を奪う。倒れ込んだ彼女に覆い被さる。彼女は目を丸くして、私を見つめる。
「真莉、酔ってないよね?」
「さて、どうでしょう。」
彼女はぎこちなく笑った。
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