窓辺による

硝水

ひだまりの部屋で

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 朝起きて顔を洗い、朝食を食べる前にふたつばかり、する事がある。寝ている間に随分と癖のついた髪を申し訳程度に直してから、玄関へと向かう。

 この部屋は元々とある会社の夫婦寮として貸し出されているから、一人暮らしには少し広い。私がなぜ勤めてもいない会社の夫婦寮に住み着いているかというと、もったいぶった割には大した理由ではないが、一言で言えば家賃が安かったからだ。二言目を追加するとすれば、私が、少々、結構、いやかなり、お節介だったからといったところか。安い家賃で住める代わりに、共有ポストに届いた郵便物の仕分け、庭の手入れ、エントランスの掃除、宅配物の預かり、ゴミ出し、などなど謂わばハウスキーパーの仕事をこなす訳だ。仕事が在宅ワークだったのもあり、この部屋を決めるのにそう長い時間はかからなかった。もっとも、新たに夫婦が引っ越してきた場合は私はお役御免、ハウスキーパーは通いで雇う事になる。そうなった時のためにいくつか物件を見て回ってはいるが、今のところピンと来るものはない。

 玄関を出て鍵をかけ、突き当たりの階段を降りる。降りきったところにあるのは共有ポスト、そして少し道路側に出るとゴミステーションだ。私はゴミステーションへと歩み寄り、今日回収の対象でないゴミが入っていないか確認する。この作業のおかげで在宅ワークの私も曜日感覚を保ち続ける事ができる。ゴミの確認が終わったら共有ポストの中身を引っ張り出す。最初は階ごとに分けて、その後階段から近い順に並べていく。

 並べているうちに違和感を覚えた。向かいの建物の郵便物が混じっているのだ。宛名は『茅田 真莉』。その淡い黄色の封筒をそっと山からよけて、仕分け作業を続ける。仕分けが終わると、各部屋のポストに郵便物を届け、最後に残った淡い黄色の封筒を持って自室に戻る。ほどよく小腹がすいてきたところで朝食の時間だ。

 封筒を食卓に置き、本日のメイン、目玉焼きを作る。ついでに醤油がきれていたのでボトルから小瓶に移す。白飯と冷蔵庫から出したヨーグルトを添えて、本日のブレックファーストの完成。目玉焼きには醤油派な私はいつも通りに目玉焼きに醤油をかけようとし、小瓶に蓋がはまっていない事に気づき、そこからの映像はスローモーションでお送りされた。

 我先にとこぼれ落ちる醤油、そしてそれらが滝のように目玉焼きに降りかかり、跳ね返り、小瓶を傾けている手は凝り固まったように動かず、際限なく茶色の地図は広がり、皿をも越え、ついにテーブルへと達した時に、一気に現実の時間に引き戻される。

 テーブルを侵食した先にあった、その、

「あ。」

「嘘、やっちゃった?」

「どうしよう……って、謝るしかないよね。」

「んー……、謝るしか、そうだよね、ないよねぇまったく。」

「あー、今日一番の悲劇だ。朝から悲劇だ。認めるしかない。」

 茶色く汚れた封筒を見て、ため息をつき、そしてなんとなく笑った。


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 茅田さんは私の住む寮の道路を挟んで向かい側のマンションに住んでいるようだ。番地がひとつしか違わないが、そもそも建物の名前がまったく違うため、郵便物や宅配物が間違って届く事はめったにない。そう思って封筒を見直してみると、やはり建物の名前が書かれていなかった。ちゃんとしてよね、と呟きながら封筒を裏返してみるも、差出人の名前もなかった。この手紙、わざわざ届けなくてもいいんじゃないだろうか。一瞬だけそんな考えが頭をよぎるが、どうせ暇なんだし、と結局は届ける事にした。

 こっちのマンションはさすがに共有ポストではなく集合ポストのようで、エントランスに備え付けられている。普通であればこのポストに入れて帰れば良いのだが、醤油の染みがついたものをそのままポストに投函する訳にもいかない。ポストで茅田さんの部屋番号を確認すると、偶然にも私の部屋と同じだった。

 ポストの奥にあるエレベーターに乗り、三のボタンを押す。扉が開いて、長い廊下が現れる。出勤時間には少し遅いからか、マンション全体がひっそりと静まり返っている。もしかしたら、茅田さんももう家にいないかもしれない。そしたらまた出直さないと。あんまり遅くなるといけないな、と思いつつエレベーターを降りる。部屋の並びが違うため一瞬迷ったが、なんとか三〇八の部屋までたどり着いた。表札には『チダマリ』とある。血だまり? いやそんな物騒な。封筒の宛名を見る。『茅田 真莉』。

「あ、これチダって読むんだ。」

「チダさんちのマリさんか、それでチダマリさんか。」

「いやー、びっくり。ちょっと危ないワークショップかなんかかと思ったよ。」

「また独り言が。この癖だけはいつまで経っても治らないなぁ。今の私は誰がどう見ても怪しい人だな。」

 ひとまずチャイムを鳴らしてみる。リンローンと電子音がなり、何かバタバタしているようだ。家主は在宅らしい。バタバタがドドドドになった頃、受話器を取る音がする。

「はっ、あの? はい、御用ですか? 何か?」

「いえあの、お宅宛の郵便物を預かったんですけども、ちょっとやんごとなき事情がありまして、開けてもらっても?」

「あっ、すみません! 今開けます。」

 ふたたびバタバタドドドドが始まり、玄関の鍵を開ける音がした。そっと扉が開き、私の顔を見て、チェーンを外した。一瞬驚いたような顔もした。外見で怪しくないと判断されて嬉しいと感じるべきか、声で怪しいと思われていたことを嘆くべきか。昔から声が低かった私は、合唱なんかは勝手にテノールを歌っていた。電話だとさらに低く聞こえるらしく、父と間違えられ「庵ちゃんいますか?」「私だよ。」はもはや日常だった。

「あのえっと、それで、郵便って……?」

「ああ、これなんですけどね、先に謝っておきます、醤油こぼしてすみませんでした。」

「あ、いえ、いいんですよ。こんなのは。」

「そうなんですか? 本当ですか?」

「ええ、本当、ですよ。」

「なら良いんですけども。間違ってうちに届いでたので。」

「いえ、わざわざ届けていただいて、その、ありがとうございました。」

「いえいえ。では、私はこの辺で。」

「お気をつけて、くださいね。」

「はい、それでは。」

 私は会釈をしてから茅田さんの部屋をあとにした。彼女は私がエレベーターに乗るまで、ずっとこちらを見ていた。


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「顔も言動も可愛い人だったなぁ。」

「私の声が怖くて怯えていたのかもしれないけど。」

「仕事柄あまり外に出ないせいか、人との関わりが希薄だったからな。」

「もっと外に出たほうが良いのかもなぁ。あ、また独り言が。気を付けよ。」

 寮に戻った私は庭の草むしりをして、エントランスを掃除し、部屋に戻った。少し空気が悪かったのでリビングの窓を開け放つ。風を通すために反対側の道路に面した窓も開けると、どうしてか茅田さんと目があった。お互いに窓を開けた姿勢のまましばし固まったあと、どちらともなく会釈した。そして同時に窓から離れた。今まで見たこともなかった人なのに、ちょっと会話しただけで案外印象に残っているものだ。これまでにも何回か茅田さん宛の手紙は紛れ込んでいたが、いつも集合ポストに投函するだけだったから彼女の顔を見たのは今日が初めてだ。

 それにしても、と冷めきった目玉焼きを食べながら思う。しょっぱい。一応拭いたテーブルもなんだか醤油くさい。Tシャツにも茶色い斑点がついてしまったし、と思った瞬間戦慄した。

「私、着替えなかったね。」

「醤油の染みついたTシャツのままだったね。」

「『醤油の人』とかって呼ばれてたらどうしよう。別にいいけど。」

「美人の前ではどんなに凡人が着飾った所で無駄。むしろ急いで届けに来たって誠意が伝わったんじゃない。」

 うむ、と頷いてふたたび目玉焼きに箸をのばす。そのしょっぱさが少しだけ愛おしく思えた。


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「さーて仕事するか。」

「醤油こぼれてるけどもう今日はこれ着てよう。」

「よく考えたら草むしりもこの格好でしてたし、もう何も怖くない。」

「新作の納品迫ってるけど、久しぶりに人と喋ったからアイデア湧き出てくる。」

 作業机に向き合った私は、とりあえず思いついたアイデアを紙に書き留める。書き出されたアイデアを眺めて別の紙にデザインしてみる。ついでに色でも塗ってみる。勢いで油粘土で形だけ取ってみる。

「なかなか悪くない出来だ。」

「でもこれ、売っちゃダメだな。」

「やり直しやり直し、これは今度趣味で作ろう。」

 また別の紙を取ってきてデザインし始める。今度は売ってもいいのが出来そうだ。今回の作品は有名なイラストレーターさんとコラボするそうで、普段より気合を入れて作る。そうしてしばらく紙と格闘して、やっと納得のいくものができる。そこから形を取ってみて、ボツになるか合格するかが決まる。最終選考に残った五個は実際に本番の材料で作ってさらに選考を重ねて、気に入ったものだけを納品する。完全に自分の趣味だけにしてしまうと売れないから、異なった要素も組み合わせながら多種多様な作品を作らねばならない。それなりに苦労もあるが、新しい発見もあり、その意味ではいい勉強になっている。今日は気分が乗っていたせいかいつもより数段速く仕上げまでたどり着けた。

「思ったより速く出来たな。」

「せっかくだからまだ何か作りたいな。」

「さっきの、仕上げちゃおうかな。気に入ってるし。」

 油粘土で形を取ってあったのを持ってきて、それを見ながら赤く着色した樹脂粘土を練り上げていく。大まかに形にし、バランスを見つつヘラで整えていく。目の部分には黒の合成石を埋め込む。あとは乾かすだけだ。

「こんにちは、真っ赤な兎さん。」


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 最近勢いを増して混じる様になってきた茅田さん宛の手紙を、今度は醤油で汚さない様に棚の上に置く。目玉焼きを作る。醤油をかける。食べる。

「この茅田さん宛の手紙って、誰が送ってるんだろ。」

「ラブレターか何かだったりするのかな。」

「いや、確かめたりはしないけど。」

「しない、しないかもしれない。」

「ウッ、手が勝手に。」

 見るなと言われたら見たくなる。それが人間だ。茅田さんは私のところに手紙が来てるのを知らないのだし、ノリで貼り直せば何とかなるはずだ。何処からか湧き出る自信だけを頼りに、封筒のノリをそっと剥がす。貼り方が甘かったようで案外アッサリと開いた。中には封筒と同じ淡い黄色の便箋が二枚、折りたたまれて入っている。便箋を静かに開くと、紙面は几帳面な字で埋まっていた。

『突然、私のような者がお手紙を差し上げる無礼をお許しください。』

 一行目からの多大なる謙遜にたじろぐ。ラブレターっぽくはない。さらに読み進める。

『本当のことを言いますと、私はまだ貴方様のお名前も存じ上げておりません故、直接お手紙を差し上げることができず、このような回りくどい方法になってしまいましたことを重ねてお詫び申し上げます。

つきましては先日お見えになられた時のご様子から誠に勝手ながら想像しますと、貴方様のご職業は在宅のお仕事なのではないでしょうか。こうしてお誘いするのも大変おこがましいのですが、どうかお暇なときにでもまた此方に立ち寄っていただければと思います。先日は何もおもてなしできませんでしたので、お気を悪くされたとも思われますが、どうかお見限りくださいませんよう、お願い致します。』

 一枚目の便箋はこれだけで埋まっていた。二枚目の便箋に持ち替える。

『また貴方様にお会いできることを強く願っております。』

 二枚目の便箋には真ん中にこう書いてあるだけだった。便箋を元のように折りたたんで封筒に戻す。ノリを引っ張り出してきて封筒のノリしろに薄く塗る。シワにならないように気をつけながらぴったりと貼り付けた。

「ラブレター……だったのか?」

「やたらと敬語の多い手紙ではあったな。」

「こりゃあ、お返事書くのも大変そうだなぁ……。」

「何にせよ、差出人は宛先をきちんと最後まで書くべきだな。」

 ノリの乾いた封筒を再び棚に置いて、朝食を再開する。今日の目玉焼きは醤油と、少し不思議な味がした。


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 もうほとんど毎日、茅田さん宛の手紙が届くようになった。その度に道路を横断してポストへ投函する。そろそろ苦情を言った方がいいのだろうか。こういう場合は何処に苦情を言うべきなのか。差出人、郵便局、茅田さん? 茅田さんに言うのは筋違いな気もするが、一番確実な気もする。

「私もお手紙を書いてみようかなぁ。」

「思えば小学生以来、手紙なんて書く機会がなかったからな。」

「拝啓、敬具、だっけ。かしこ、なんてのもあったかも知れない。」

「なんだかワクワクしてきた。レターセットって何処にしまったかな。」

 庭の草を抜きながら文面を考えてみる。そういえば、字を書くのも久しぶりに思える。商品のメッセージカードに字を添えることもあるが、まとまった文章を書くのはいつぶりだろうか。引き出しをあちこち探した結果、デザインだけを見て買ったレターセットが出てきた。買ってから何年経ったのだろう、やっと日の目を見ることとなった。

「ええっと。」

「『拝啓 茅田様』。」

『覚えていますでしょうか、以前手紙を届けに参った者です。茅田様宛のお手紙の件に関しまして、この度お手紙を差し上げることと相成りました。

 実は、以前お届けしたもの以外にも、私の家に間違って届いたお手紙がたくさんありまして、もちろんその都度お届けしておりましたが、近頃どうも量が多いようなのです。つきましては、先方にどうかご住所はきちんとお書きくださいますよう、お伝えいただければ幸いです。』

「『敬具』。」

「敬語って難しい。」

「ちゃんと通じるかな。」

「日本人だから通じるよね。」

「じゃあ、これを明日投函して来よう。」

 その日の夜は、遠足前夜の子供のようになかなか寝付けなかった。


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 手紙をポストに投函した次の日、早速手紙が届いていた。切手が貼られていないので、直接ポストに投函したようだ。今度は宛先が私になっていて、住所も最後まできっちり書いてある。これなら堂々と封筒を開けられる。のりしろ部分は簡単に剥がせるようにという配慮からか、ゆるく貼り付けられていた。

 私は封筒から便箋を取り出し、読み、そっと元の通りに便箋を封筒に入れて、少し髪を触った。

「ふむ。」

「お茶のお誘いが来た。」

「なんというか、優雅な人だなぁ。」

「お土産とか持っていったほうがいいのかな。」

「私、普段インスタントコーヒーしか飲まないからお茶菓子とかわからないな。」

 とりあえず外に出ても恥ずかしくない格好に着替え、寝癖をなんとなくいい感じに流し、ついでに頰についていた緑の着色料をこすってみる。落ちない。もう何年も使っていなかったファンデーションを引っ張り出してきて、申し訳程度に誤魔化してみた。玄関に出してあったサンダルを横目で見つつ、下駄箱から相対的に綺麗なスニーカーを吟味する。

「それじゃ、行ってきます。」

「誰に言ったわけでもないけど、戦場に赴く戦士の気分だぜ。」

 新鮮な気持ちで階段を駆け降りると、向かいのマンションは思いの外遠いように思えた。毎日のように手紙を届けに来ていたのに、ちゃんとしたお誘いがあると何だか変に緊張してしまっている。いやに長い赤信号を睨み、早く変われと念を送る。動いていないと人の目が気になってしょうがない。変な格好してないだろうか。

「赤だー。」

「信号の青は、青か緑かで度々論争が起きる。」

「昔は緑のことも青って言ったから、青の方がより正確かな?」

「あっ、また独り言いってた。独り言を言う癖は何言癖っていうのかなぁ。」

 信号が青に変わったので、通勤ラッシュを過ぎて車通りの少ない道路を横断する。それでもなんとなく小走りになってしまうから不思議だ。エントランスを抜けて、エレベーターに乗る。三のボタンを押し、ゆっくりと上昇を始める感覚に身を任せた。三〇八の部屋まで来たところで、詳しくなくてもお菓子くらいは持ってくるべきだったなと後悔する。今から戻るのも癪なのでそのままインターフォンを鳴らす。

「はい。」

「ええっと、緋田、です。」

「あっ、はい、今開けますね!」

 パタパタと軽い足音が響く。不意の訪問ではないのである程度準備ができていたのだろう、すぐに扉が開いた。

「お待たせしました。」

「いえ、お邪魔します。」

 通された部屋は掃除が行き届いていて、調度品のセンスもいい。落ち着いたベージュを基調とした服も、彼女によく似合っている。

「どうぞ、ゆっくりなさってください。」

「ああ、お構いなく。」

「今、お茶淹れますね。」

「手土産ひとつありませんで申し訳ないです。」

「私が勝手に呼んだのですから、お気になさらないで。」

「ではお言葉に甘えて。」

 温もりを感じる木製の座卓には籠盛りのマドレーヌが用意されていて、お茶にはこういうものを合わせるのか、と思う。しばらく部屋を眺めて時間を潰していると、熱湯を注ぐ音と共に紅茶特有の香りが鼻腔をくすぐる。お湯を注ぎ終えた茅田さんがタイマーを持って戻って来た。

「いきなりお呼びしたのに来て頂いて、すみません。」

「いえ、どうせ暇だったので……。」

「……あの、敬語じゃなくていいですよ。」

「そうですか? じゃあ茅田さんも。」

「いえ、それはちょっと……。」

 タイマーが鳴る。茅田さんは手元のボタンを押して音を止めると、台所へ立った。程なくしてカップとポットを載せたお盆を抱えて歩いてきた。湯気を立てるカップを差し出される。

「どうぞ。」

「ああ、戴きます。」

 にっこりと笑う茅田さんは凡人には眩しい。茅田さんが口をつけるのを見て、私も一口飲む。強張っていた身体が少しだけ楽になる。

「美味しいですね。」

「よかったです。」

「……。」

「…………。」

 沈黙が苦なわけではないが、迂闊に独り言が言えないと思うと自然と唇に力が入る。ちらりと茅田さんの方を見ると、カップを手に持ったまま瞑目していた。味わっているのだろうか。微動だにしない。

「……茅田さん?」

「…………ぐぬ。」

「寝てます?」

「むにゃ。」

「……え、本当に寝てるの。」

 思わず肩を叩こうとした手を止めて、まずは茅田さんの手の中からカップを救出する。まだ中身が残っていた。カップをテーブルにそっと置いてから、茅田さんの肩を叩く。

「茅田さん起きてー。」

「…………。」

「紅茶冷めちゃいますよ。」

「……む。」

「マドレーヌ食べちゃいますよ。」

「ん……。え。」

「おはようございます。」

「……私、寝てましたか?」

「ええ。私、帰りましょうか?」

「すみません、大丈夫です……。」

「昨日は遅かったんですか。」

「それなりに……。締め切り近いので。」

「目閉じちゃってますよ。」

「や、やっぱりちょっと寝ます。好きにしててください……。」

「あ、布団で寝なくていいんですか。」

「ぐぅ。」

「……聞いてないな。」

 床に倒れこんで寝てしまった茅田さんに、せめてもの気遣いでパーカーを枕にしてみる。少し冷めてしまった紅茶をすすりながら、それにしてもと考える。

「寝不足なのに。」

「何も今お茶に誘うことはなかったのでは。」

「無理してますって顔、してらっしゃるもんなぁ。」

 死んだように眠る茅田さんの目元には濃いクマが浮かび、心なしか顔色も良くないようだ。締め切りと言っていたが仕事か何か、大変なんだろうか。この時間に家にいるということは、少なくとも会社勤めではないみたいだが。

「綺麗な手だなぁ。」

「ペンダコができてるけど。」

「それを差し引いても、細いし白いし。」

「九号入るんじゃなかろうか。うらやましいな。」

「顧客はやっぱり九、十一号層が多いからその辺ばかり作ってるけど、私自身そこまで細くないからな。」

 呟きながら白磁の指をなぞる。茅田さんは目を覚まさない。指先の赤い色が手の白さを一層引き立てている。思わず溜息を吐いた。この人の、この手の為に仕事をするのだったらどんなに良いだろう。ずっと触れていた茅田さんの指が僅かに動く。そのまま亀のように腕を巻き込んで丸まってしまった。

「寒いのか。」

「何か掛けるものでもないかな。」

 立ち上がるのが億劫だったので、その場で首を巡らす。部屋の隅に無造作に放られたブランケットを発見した。ゆっくりと立ち上がる。ブランケットを手に取ると、下に何か置いてあるようだった。ひとまず茅田さんにブランケットを掛ける。振り返って見ると、ブランケットの下から現れた物は、

「パソコン?」

「と、何だっけ。」

「絵描きさんが使ってるやつ。」

「茅田さんは絵を描く人なのかな。」

 茅田さんからの返答はない。ぐっすり眠っているようだ。私は何個目かのマドレーヌをかじりながら、次で最後だ、と思った。この最後のマドレーヌを食べてしまったら、お礼の書置きをして帰ろう。そう決めてから、マドレーヌに手を伸ばすのがなぜだか躊躇われた。


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「……あ、おはようございます……。」

「はい、おはようございます。」

「すみません、いきなり寝てしまって……。」

「いえ、気にしないでください。」

「ちょっと顔を洗ってきますね。」

「行ってらっしゃい。」

 しばらくすると、ぱっちり目の開いた茅田さんが戻ってきた。

「お待たせしました。」

「ご気分は如何ですか?」

「大分良くなりました……。寝不足良くないですね。」

「せっかく綺麗なんですからちゃんと寝た方が良いですよ。」

「ご冗談を。でも今日はしっかり寝ようと思います。」

「……。」

「……。」

 話題がない。まともに話したのが今日で二回目なのだから仕方ない気もするが、茅田さんの趣味なんかももちろん知るわけもなく。かと言っていきなり「ご趣味は?」などと聞き出せば、完全にお見合いだ。茅田さんの方を見ると、目が泳ぎ、泳ぎ、そして合った。

「何かお探しですか?」

「いえ、ちょっと、話の接ぎ穂を……。」

「あ、そうですか。」

「ええっと、ご趣味は?」

「手芸、と言いましょうか。」

 お見合いが始まってしまった。


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 少し日が落ちてきた頃、私は茅田さん宅を後にした。ひとつ残したマドレーヌと、お茶へのお誘いを携えて。彼女がどうして私をお茶に呼んだのか、それは結局分からなかった。何にせよ、次は美味しそうなお菓子でも調べて持って行こう。

「今日は寒いな。」

「……あ、パーカー忘れた。」

「いいか、またお茶しに行くんだし。」

 ちょうど青になった信号を見上げながら、横断歩道を渡る。

「本日は晴天なり。」

「ただし、少々肌寒し。」

「東の空は晴れ模様、西は少し曇り気味。」

 階段を三階まで駆け上がり、乱れた息を整える。エレベーターが恋しい。廊下を歩きながら、自室を間違えそうになる。

「自分サイドの記憶が、曖昧ミーマイン。」

 鍵を開けて電灯を点ける。LEDライトの眩しさにクラクラした。着替えもそこそこにリビングへ倒れ込む。仰向けになると、余計に眩しく感じた。閉じた瞼の上にそっとマドレーヌをのせる。甘い香りが鼻先まで降りてきた。

「昔聞いた話。」

「死者の瞼の上に玉葱を置く。」

「すると臭いが鼻まで侵食してくる。」

「死者は耐えきれずに復活する、と信じられていた。」

 寝よう、そう呟いたかどうかも分からないうちに、意識は深い海へと沈んでいった。


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 気づけば今日は第二回お茶会イン茅田さん家の日だ。朝の仕事を先に済ませたが、茅田さん宛の手紙はもう混ざっていなかった。着替えて、いつもより念入りに髪を整えてから悩む。

「あれから色々調べた。」

「だがしかし何がいいのか分からなかった。」

「ここまで来て手ぶらは悔しいし、何より申し訳ない。」

「何を持って行ったらいいんだ……。茅田さんは何なら喜ぶのか。」

 出発直前になって未だお土産の内容を決めかねていた。閃きを頼って何も置かれていないテーブルを眺め、床を見、最後に棚に目をやる。棚の上からはクリアケースに入った兎がこちらを見ていた。

「兎、ちょっと小さかったんだよね。」

「無意識に小さく作っちゃったんだろうな、その方が映えると思って。」

 クリアケースの上にうっすら積もった埃を払う。兎の黒く潤んだ瞳がはっきりと見える。茅田さんの細くて綺麗な指を思い出し、秒針が一周するくらい悩んで、兎を連れて行ってみることにした。細々とした商品用の紙袋にクリアケースごと入れて、引き出しからロゴの入ったシールを取り出す。ひとつ剥ぎ取って紙袋の口を閉じた。

「うん。」

 出来上がりに満足した私は、手の平に納まるほどのお土産を持って家を出た。階段を降りるときに縺れそうになる足がもどかしい。信号待ちがいやに長く感じる。エレベーターが降りてくるのが待ち遠しい。やっと開いた扉から中に滑り込む。エレベーターを降りた先では彼女が待っていた。

「こんにちは。」

「こんにちは。」

「お待たせしていましたか。」

「いえ、ただちょっと外で待っていたい気分だったんです。」

「そうですか、なら良かった。」

「入りましょうか。」

 そう言って茅田さんは扉に手を掛ける。金属のドアノブと形の良い爪がぶつかって、小気味良い音を立てた。

「どうぞ。」

「お邪魔します。」

 前回と同じ部屋に通され、茅田さんは紅茶を淹れるのか一旦席を外す。座卓の皿に盛ってあるのは、今回はビスケットだった。手に握っていた紙袋を自分の正面に置く。彼女は正面に座ると思ったからだ。紙袋を置いたついでにビスケットを一枚手に取る。カラッと乾いていて、新しく開けたものだとわかった。塩気のある風味が口の中に広がって、懐かしい感じがする。二枚目に手を伸ばしたところで、お盆を持った茅田さんが戻って来た。湯気を立てているのはマグカップだ。

「今日はホットミルクにしてみました。」

「いいですね。あと、お先してます。」

「たくさん食べてくださいね。」

「美味しいです。」

 茅田さんは私の前にカップを置き、その隣にもうひとつカップを置き、お盆を床に置いて私の隣に座った。私はさりげなく紙袋を彼女の前に引き寄せてみた。

「私に?」

「つまらないモノですが。」

「開けてもいいですか?」

「どうぞ。」

 茅田さんはシールを丁寧に剥がして、紙袋を手の平へ傾けた。クリアケースがその手に転がり出る。

「指輪、ですか?」

「ええ、出してみてください。」

「赤い兎なんですね。」

「気に入らなかったら持って帰りますけど……。」

「いえ、可愛いです。嬉しい。」

「よかった。手、出してください。」

 彼女の手から兎を受け取り、出された左手を取る。中指では少しキツそうだったので薬指にそっと嵌める。支えることなく通った。

「手が白いので映えますね。」

「そんなことないです。」

「褒め言葉は素直に受け取っていいんですよ。」

「……ありがとうございます。」

 茅田さんは少しだけ俯いて言った。私はなんだか気恥ずかしくなってしまって、誰もいない正面に向き直る。

「どうして茅田さんは、正面に座らなかったんですか?」

「……その、横顔が、好きなんです……貴方の。」

「……えっと、冗談でしょう、か?」

「……褒め言葉は素直に受け取ってください……。」

 早口でさっき私が言った言葉を繰り返す。消え入りそうな声で。

「は、い……ありがとうございます……?」

「いきなりこんな事……すみません。」

「いえ、いいんですけど……。」

「たまたま見かけて、綺麗だなって、思ったんです。」

「はぁ。」

「さては、自分の魅力に気づいてないでしょう。」

「自分の横顔なんて見えませんもの。」

「あっ、そうでした……。」

 俯いていた茅田さんはさらに俯いた。心なしか耳が赤い気がする。

「とにかく、そういうことです……。あと、私の事は、真莉で、いいです。」

「……真莉さん。」

「……はい。」

「私のことも、庵でいいです。」

 真莉さんは勢いよく頭を上げて、私と目が合って、気まずそうに俯いた。

「はい、庵、さん……。」

「よくできました。」

 ふわふわの髪を撫でる。指に絡む髪をそのままにしていたい。彼女の頭に手を置いたまま、私は続けた。

「敬語も止めようって、前、言ってましたね。」

「はい、あの……やめてください……。」

「ん。そういえば真莉さん、睡眠不足は解消された?」

「うん、大丈夫……。」

「よかった。」

「ね、あの、頭……。」

「え? あ、ごめんなさい。」

 真莉さんの頭に乗せていた手を退ける。名残惜しい。

「真莉さんの髪、柔らかいなって思って。」

 真莉さんはちらっと目を上げて、私と目が合って、また俯いた。さっきより耳が赤い。どこまで赤くなるんだろう。

「いつもすぐ、そういう事いうの……?」

「真莉さんだからじゃないですか。」

「やめて……爆発しそう……。」

「爆発は困る。」

 ホットミルクを飲んで、床に戻した手が真莉さんの手に触れる。彼女はあからさまにびっくりしていて、なんだか申し訳なくなった。

「真莉さんなら、可愛いとかは言われ慣れてるんじゃないの?」

「いっ、庵さんが言うから……!」

「えっ、こんな声でごめんなさい?」

「………………いえ……。」

 ほとんど座卓に頭をぶつけそうなくらい俯いた真莉さんは、聞き取れるか取れないかくらいの声で言った。

「ミルク、冷めるよ。」

「うん……。」

 真莉さんはそろそろと顔を上げて、カップを両手で持った。うっかり可愛いと口に出しそうになったが堪える。これ以上言ったら本当に爆発してしまいそうだ。しばらく無言でホットミルクを飲んだりビスケットをかじったりする。カップが空になる。ビスケットも残り二枚になった。

「一枚ずつ食べようか。」

「……うん。」

 ふたり同時に皿に手を伸ばす。一枚ずつビスケットを取って口に入れる。サクサクと一定のリズムで咀嚼し、同時に飲み込んだ。

「ずっと言うの忘れてたけど、私前にパーカー置いていった?」

「あ、うん。取ってくる。」

「ありがとう。」

「ちょっと待ってて。」

 真莉さんはパタパタと足音を立てながら部屋を出て行った。風に髪が揺れて、光に透ける。

「なーんか、恋人同士みたい。」

 私は曲げていた足を伸ばして、後ろに反り返った。薄いカーテンの向こうには、私の部屋が見える。


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 わざわざ洗濯してもらっていたパーカーを受け取り、真莉さん宅を出る。真莉さんはエレベーターまで見送ってくれた。エレベーターに乗り込み、開ボタンを押したまま手を振る。彼女も指輪の嵌った左手を小さく振り返した。

「じゃあ、また。」

「近いうちにね。」

 一階のボタンを押す。閉まる扉の隙間から、真莉さんが微笑んでいた。だいぶ落ち着いたようだ。彼女は私の横顔が好きだと言った割に終始俯いていた気がする。

「まあ。」

「私も本人の見てる前で手をベタベタ触れるかっていうと、触れないけど。」

「それとこれとは似たようなものなんだろうか。ちょっと違う気もするけど。」

 手ぶらになって少し軽くなった体で、今なら飛べそうだ。唯一の信号は青。ちょっとだけ心も浄化された気がする。階段を駆け上がって息が切れても、清々しい気持ちが勝っていた。冷蔵庫からカフェオレを取り出して一気に流し込む。パックをたたんで捨ててからおもむろにパソコンを開くと、メールが来ていた。

「ん、取引先からだ。」

「『コラボを予定しているイラストレーターさんが、是非直接コンセプトを伺いたいとのことです。』」

「ふむ。コンセプトか……。ちょっと待てよ、頑張って捻り出さねば……。先方も真面目な人だなぁ。」

 長針が一周するくらい悩んで、やっとそれらしいことを思いついた。適度に真面目で適度に不真面目だ。行ける。

「続きがあるな。」

「『日取と場所はこちらでいかがでしょう。』」

「『不都合があればまたご連絡ください。』か。本当言うといつでもいいんだよね。」

「『予定通りで大丈夫です。先方にもよろしくお伝えください。』っと、送信完了ー。」

 日取は一週間後だ。真莉さんにも伝えておいた方がいいかな。準備させてから断るのは酷だ。棚からレターセットを出してきて、手紙を書く。これを明日投函しておけばいいだろう。

「そういえば、連絡先知らないな。」

「手紙書くのも楽しいし、知らなくてもいいか。」

 前回より砕けた作法で手紙を書くのが、他人じゃなくなった証拠みたいでほんのりと嬉しかった。


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 翌日、真莉さんから手紙が届いていた。家に戻ってから封筒を開ける。便箋が一枚だけ入っていた。

「『奇遇ですね。私もその日は用事があるんです。』」

「そっか、なら良かった。お茶会は再来週に持ち越しかな。」

 便箋を折りたたんで封筒に戻す。封筒を棚に収めてから台所へ向かう。今日も目玉焼きだ。決して目玉焼きしか作れない訳ではない。目玉焼きこそは天より与えられし至高の調理法だ。うむ。今度目玉焼きモチーフの指輪でも作ってみようかな。誰が買うんだ。

「なんでも挑戦さー。」

「出汁巻き卵には挑戦しません。」

 どう足掻いても卵料理から抜け出せない自分に泣けた。


■□■□■□■□■□

 指定されたのは落ち着いた印象のカフェで、午前中なせいかあまり混んでいない。待ち合わせの二十分前に着いてしまったようで、先に座って待つことにする。店員さんにあとふたり増える旨を伝えて、広いテーブルに案内してもらう。入り口の見える席に座って、メニューを眺める。コーヒーは豆から挽いているらしく、久しぶりにインスタントじゃないコーヒーが飲めることにひとり喜びを感じていた。店員さんをベルで呼んで、ブレンドコーヒーを頼む。虚空を見つめながら暇を潰して、コーヒーが運ばれてきた頃に店のドアが開いた。先方は取引先の人と一緒に来るらしい。ドアの向こうにいたのは果たして取引先の人だった。私に気づいて手を挙げる。私も手を挙げて応える。取引先の人の後ろにはもうひとり、影が見える。取引先の人がこちらを手で指しながら話しかけている。ドアの向こうから現れた人物と私は、ほぼ同時にお互いを指差した。

「真莉さん?」「庵さん?」

「あれ、お知り合いですか。」

「知り合いも何も……何でここに。」

「それはこっちのセリフ……庵さんって@home*さんだったの?」

「真莉さんはBloody_Scarredさんだったの?」

「もう私要りませんか?」

「「そうですね。」」

「では、失礼します。おふたりはどうぞごゆっくり。」

「「はい。」」

 取引先の人は店員さんに会釈をして帰っていった。私と真莉さんは席に着く。彼女はやはり私の隣に座った。

「今日は仕事ですからね。」

「じゃあ正面に座ってはいかがでしょう。」

「そこは譲れませんな。」

「めちゃくちゃ公私混同してますけど……。」

「ところで、コンセプトは考えてきたんですか?」

「か、考えずに作ったってこと、バレてらっしゃる……。」

「まぁ私も考えてませんからね。」

「ならどうしてコンセプトが訊きたいなんて言ったんですか。」

「どんな人が作ったか気になっただけです。」

 真莉さんはメニューをさっと見て、ココアを頼む。甘いものが好きなんだろうか。ホットミルクにも少し甘みが加えてあった気がする。

「だったら目的は達成された訳ですね。」

「はい。と言う事でお仕事終了です。敬語タイムも終わり。」

「切り替え早い。」

「ここからは楽しくお出かけ版お茶会。」

「お茶菓子も頼む?」

「チョコレートパフェ半分こしたい。」

「じゃあそれで。」

 チョコレートパフェ(四、五人向け)を追加注文し、真莉さんのココアが運ばれてくる。彼女はそれを一口飲んで、熱かったのか舌を出す。

「そういう仕草だめ。」

「え?」

「直視できない……。」

「そんなに変な顔してた?」

「違う、逆……。ときめく。」

「ちょっ……!」

「あ、パフェ来たよ。大きいね。」

「切り替え早……!」

「これ食べ切ったらどうする? 帰る?」

「…………うち、来る?」

「ん、やった。真莉さんの用意するモノ美味しいもん。」

「今日は大したものないけどね。」

 ふたつ用意されたスプーンをそれぞれ持って、左右からパフェを食べ進める。チョコレートソースのかかったソフトクリームが口に涼しい。真莉さんはココアでやられた舌を一生懸命冷やしていた。癒される光景だ。見つめていたら彼女が顔を上げる。目が合って、彼女が俯いた。例の如く耳が赤い。

「なんかごめんなさい。」

 真莉さんは俯いたまま首を振った。男だったら絶対に落ちてる。


■□■□■□■□■□

 パフェとの戦いに勝った私達は、一緒に真莉さん宅に来ていた。彼女からすれば帰ってきただけだが。

「散らかってるけど。」

「散らかってるの基準おかしい。」

「そう? 今お茶淹れるね。」

「ついてっていい?」

「キッチンはもっと散らかってるけど。」

「私の家より綺麗な確信はある。」

 そう言ってついて行った台所はやっぱり綺麗だった。真莉さんは慣れた手つきで紅茶の缶を取り出す。フタを開けると優しい香りが辺りに漂った。スプーンで茶葉をすくってポットに入れる。火にかけてあった鍋からお湯を注ぎ、タイマーをセットする。

「面白い?」

「うん、普段しないから。」

「さっきもコーヒー頼んでたもんね。」

「家ではインスタントだけど。」

「……お湯注ぐだけだね。」

「……壊滅的に料理が出来ないのでね。」

 そうこうしているうちにタイマーが鳴る。真莉さんはタイマーを止めて、ポットとカップをお盆に乗せる。

「持つよ。」

「え? いいのに。」

「何もしてないから、私。」

 手を伸ばす真莉さんをかわしてお盆を持つと、彼女はちょっと不服そうに見上げてきた。目が合う。数秒見つめ合う。彼女はまた耳を赤くして俯いた。俯いたままの状態でいつもの部屋に歩いていく。私も後に続いた。座卓にポットとカップを置いてお盆を床に置く。すでに腰を下ろしている彼女の隣に座った。

「誰とでも赤くなるの?」

「……庵さんだから。」

「……そうなんだ?」

 真莉さんは一層深い角度で俯く。赤くなっている耳が流れる髪に隠れる。私はカップに紅茶を注いで、自分と彼女の前に置いた。彼女は少しだけ顔を上げてカップを手に取る。一口飲んでほっと息をついた。

「……今日はいつまで居てくれる?」

「いつでも、いいけど。」

「じゃあ、少し、こうさせてて。」

 依然俯いたままの彼女は、私の肩というか二の腕に頭を預けてきた。

「……真莉さん疲れてる?」

「そうなのかも。」

「寝るならちゃんとしたとこで……。」

「……庵さんの隣がいい。」

「……本当、疲れてるね。」

 柔らかい彼女の髪を撫でる。今度はされるがままだった。本当に寝てしまったのか傾いてきた彼女を支えて、なんとなく膝に据えてみる。太ももが暖かい。真莉さんの顔にかかった髪を払う。安らかな寝顔だ。カップの紅茶を飲み干してしまった私は、電気消したほうがいいのかな、と思いながら彼女の寝顔を見つめる。それから手を見る。さっきは気付かなかったが左手にはウサギが鎮座していて、ちょっとした照れが私を襲った。


■□■□■□■□■□

 真莉さんは案外すぐに起きた。

「ん……。」

「あ、起きた?」

「おはよう……。膝枕してたの?」

「んー。なんとなくね。」

「足痺れてない? 重くなかった?」

「大丈夫、大丈夫。」

「もう、外暗いね。帰る?」

「そうしようかな。」

 言うなり彼女は立ち上がって、手櫛で髪を整える。ちょっと寝癖がついていた。私も、実は痺れている足を引きずりながら立ち上がる。玄関までの道程は短くて、あっという間だ。ドアを開けて待っている彼女の横をすり抜けて、外に出る。彼女がドアを閉めるのを見届けてから今度は長い道程を歩き出した。その間ずっとお互いに無言で、でも居心地の悪い無言ではなかった。終着点のエレベーターに乗り込むと、彼女が少しだけ寂しそうな顔をした。

「また来るから。」

「……うん。」

 そう言って彼女の髪を撫でる。寝癖がピコンとなった。その手を離すのが切なく思えるほどには、彼女に毒されているようだ。


■□■□■□■□■□

 次の朝起きると、ポストに大家からの手紙が入っていた。

「大家さんからとは珍しいな。」

「『新しい夫婦の入居が決まりました。』」

「『再来週までに荷物をまとめておいてください。』」

「『明日から雇いのハウスキーパーさんを入れるので、仕事の方は心配しなくていいです。』」

「今か……今来ちゃうか……荷物はいくらでもまとめるけど行くところがない……。どうしよう……。」

 震える手で便箋を封筒に戻す。幸いまとめる荷物は少ない。ネットカフェに持ち込めるかは微妙だが、ビジネスホテルなら泊めてくれそうだ。今まで真面目に家探しをしていなかった過去の自分を責める。何がピンと来る物件だ、住めれば何でもいい!

「とりあえず、目玉焼き食べよ……。」

 荷物をまとめるのはそれからだ。大半のものは処分して仕舞えばいいし、かさばるのは仕事道具くらいだ。半ば無意識に焼いた目玉焼きは、裏がパリパリになっていた。

「こんな時すぐに相談できるような友達が。」

「私にはなんと、真莉さんくらいしか居ない。」

 という訳で手紙を書いてみることにした。つい先日行ったばかりなのに、まだ手紙でやり取りをしていることが滑稽にも思える。書き終えた手紙を投函しに行き、ポストを前にして思う。

「真莉さんはイラストレーターなんだから、今家に居てもおかしくない。」

 エレベーターで三階に登って、試しにチャイムを鳴らしてみた。

「はい?」

「庵です。」

「えっ、どうしたの急に。今開けるね。」

「ごめん、ありがとう。」

 程なくして扉が開いた。彼女は仕事中だったのか、眼鏡をかけている。少しだけいつもと雰囲気が違った。

「今日も何もないけど。」

「真莉さんが居るだけでいいよ。」

「ちょっと……どう意味で言った? 今。」

 彼女はなぜか俯いた。俯いた拍子に眼鏡がずれてしまっている。彼女が俯くポイントはたまによく分からない。

「相談にのって欲しい。」

「……いいけど、何の?」

「再来週、家がなくなる。」

「……えっ?」

「特別に貸してもらってたんだけど、契約が切れる。」

「新しい家は……?」

「ないから困ってるの……。」

 真莉さんは軽く俯きながら顎に手をあてて考え込む姿勢をとる。私の表情から悲壮感を読み取ってくれたのか、彼女なりに考えてくれているようだ。

「……じゃあ、ここ、住む?」

「無理無理、家賃お高いでしょ?」

「そうじゃなくて、その……。」

「違うの?」

「この部屋、に……住む?」

 言い切ったか言い終わらないかのうちに彼女は盛大に俯いてしまった。頭が小刻みに震えている。覗く耳は今までにないくらい真っ赤だ。私は思わずキョトンとしてしまった。

「………………えっと、いいの?」

「…………嫌?」

「そんなことないけど、ないんだけどさ……? でも……。」

「でも何。……嫌ならそう言って。」

「ちょっと、何拗ねてるの。嫌じゃないって。」

「嘘、何が不満なの?」

「不満なんてないから、顔上げてよ。」

「嫌。」

「どうして、ねぇ。」

「嫌。」

「……真莉。」

 床についていた彼女の手に自分の手を重ねる。彼女の手はひどく冷たい。

「聞いて。」

「嫌。聞かない。」

 重ねた手に力を込める。彼女は抵抗するように少し手を引く。

「じゃあ勝手に言うけど、私は真莉みたいに料理出来ないし、家賃だって半分払えるか怪しいし。」

「やめて。」

「何より真莉が本当に私といて幸せなのか分からない。」

「っ……。」

 彼女は顔を上げかけて、眼鏡を外し顔を拭う。拭った後もなかなか顔を上げない。私は重ねていた手を離した。彼女の手が弱々しく私の手を捕まえる。それからまた何回か顔を拭う。それでも彼女は顔を上げない。私はそっと彼女を抱き寄せた。

「……ごめん。」

「…………嫌。許さない。」

「…………ごめん。」

「……そんな事言われなきゃ分からない。」

「ごめん、真莉。」

「全部言って、考えてる事全部。」

「真莉、ごめん。……幸せ?」

「幸せだよ。私がどれだけ庵の事想ってるか知らないでしょ。」

「うん。真莉も言ってくれたら分かるよ。」

「私の悩みも聞いてくれる?」

「うん。」

「……苗字ちょうだい。」

「ひだまり?」

「……だめ?」

「似合ってるよ。」

 やっと顔を上げた彼女は、太陽の笑みを浮かべていた。


■□■□■□■□■□

 引越し当日、真莉も手伝いに来てくれた。一度は断ったが、彼女は彼女で引かなかった。

「段ボールひとつなの?」

「うん、だからいいって言ったのに。」

「……どうせ両手塞がってドア開けられないんでしょ。」

「それもそうか。」

「引越しに段ボールひとつって、庵は遊牧民族なの?」

「前の生活に未練がないだけ。」

「……そう言う事サラッと言う。」

 彼女はドアを開けながら俯く。心なしか口元が笑っている。私はそんな彼女の髪を撫でようとして、段ボールを抱えている事を思い出した。

「目の前に頭があるのに撫でられない……。」

「何? 撫でたいの?」

 真莉が私の手に頭をぐりぐり押し付けてくる。くすぐったくて段ボールを取り落としそうになる。

「真莉のそういうとこ好き。」

「……またサラッと言う!」

 彼女は頭を離してさらに俯いてしまった。いつになったら顔を上げて照れてくれるんだろう。

「着いたら表札、緋田真莉にしようか。」

「庵も書こうよ。」

「結婚しましたーって?」

「だから、もう……!」

 エレベーターにふたりで乗るのは初めてだ。ひとりで乗るのとは違う新鮮な感覚にわくわくする。彼女の家に入ると、いつもの部屋が綺麗に片付けられていた。

「ここ、使っていいの?」

「特別な部屋だもん。」

 段ボールを隅の方に置く。開封はまた後だ。どうせ仕事道具くらいしか入っていない。窓を開けて、風の当たる位置に座る。

「真莉。」

「何?」

「ありがと。」

 隣に座った彼女の髪を撫でる。その手触りは私を虜にするのには充分すぎるくらいだった。私を見上げる彼女の前髪をかき上げる。露になった彼女の額に、そっと口付けた。

「なっ……!」

「ささやかなお礼。」

 彼女は、やっぱり勢いよく俯いてしまった。照れた顔が見られるまでの道程は長そうだ。開け放たれた窓からの風が心地いい。私は静かに、彼女がこの窓から見ていた景色と、時間を思った。そして、これから流れていく時間を思った。彼女の手を取り、握る。その冷たさはじんわりと染みていくようだ。彼女は少しだけ不本意そうに応える。

「……好き。」

「ばか。」

 俯く彼女の耳は赤い。そんなところがあの兎みたいだと思った。

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