275 権現 一柱の光翼②

「わからないのかよ!」


 ジョットは叫び、立ち上がった。

 最期に見たフィオの満ち足りた笑みが網膜に焼きつき、熱が込み上げる。怒りと悲しみとフィオへの愛に濡れる目で、竜王たちをにらみつけた。


「大好きなんだよ! フィオさんは心からあんたたちを愛してんだ! 時々すれ違ってケンカもするけどっ。いっしょに眠るぬくもりが、半分に分け合ったパンのおいしさが、同じ風を感じる瞬間が、また『おはよう』って言える朝が……! フィオさんはっ、命を懸けたって惜しくないほど好きだったんだ! あの人はただっ、あんたらと歩みたかっただけなんだよ……!」

「僕たちが、大好き?」

「理屈などないのか。ただ好きだというだけで、俺の同朋もあの男を選んだ……」


 イグナーとオルグリオが自問自答するようにつぶやく横で、ヘルツィヒが長大な体をひるがえしはじめた。


「どこへ行く」


 竜神が引き止める。頭だけ振り向き、ヘルツィヒはフィオを見て目を絞る。


「……今日は、天気が悪い。赤子に免じて退くことにする。だが我々は、受けた仕打ちを忘れはしない。せめてその女を手土産にしようか」

「ならん! これは私のものだ!」


 竜神の咆哮とともに、青い大翼が鋭く瞬く。次の瞬間、まるで元からなにもなかったかのようにヘルツィヒが消えた。

 夢でも見ていた心地で、ジョットは空虚な空間を見回す。しかし大蛇の姿は跡形もなく、気配さえ辿れなかった。


「どこに行ったんだ」

「元の場所に返しただけだ。空間を操る能力があったことも忘れたか」


 口ずさむように言って、竜神は四頭になった竜王の前に出る。ちらと寄越された楽しげな目がまた、ジョットの心臓を大きくうねらせた。

 もうわかってきた。

 竜神が何者なのか。自分が誰だったのか。


「他の者も、この場は私に任せてくれるな?」


 ヴィゴーレとテーゼはすぐにうなずいた。イグナーは不満の声をもらし、横目でオルグリオをうかがう。

 オルグリオは長考した。自分たち以外の生命が存在しないからっぽの世界で、沈黙が痛みに変わってきた頃、翼竜王が頭を上げる。


「わかりました。竜神様に従います」


 それは思っていたよりも迷いのない声だった。返答するや否やきびすを返すオルグリオに、イグナーは面食らったようで「じゃあ僕もそれでいいです!」とやけっぱちに叫ぶ。

 オルグリオは飛び立ち、イグナーは駆け出して、その場から去っていく。二頭の姿はやがて、淡い桃色の雲に遮られて見えなくなった。


「……竜神様。あの秘術をなさるおつもりですね」


 二頭の気配も辿れなくなったところを見計らい、テーゼが口を開く。確信を持った様子の彼女と違い、ヴィゴーレは動揺を見せた。


「あれをすればお命を削ります……!」


 にわかに胸がざわつきはじめ、ジョットは服の上からそこを掴んだ。

 せつな心を覆い尽くそうとした恐怖は、おだやかな清水に洗い流されて凪ぐ。ぴんと張った水面に映るのは、フィオの様々な表情だ。

 ジョットは竜神を見上げた。今感じているのは彼の心そのものだ。死の恐怖がフィオへの愛に塗り替えられ、ジョットの胸をもうずかせる幸福に満たされていく。


「構わない。永き時より、フィオと再びともに歩めるなら一瞬でもいい」


 フィオを一心に見つめたまま竜神が告げると、ヴィゴーレとテーゼは黙って一礼した。そして二頭は虚空へ飛び去っていく。

 不思議だった。ジョットの頭の中には、今の言葉を竜神を見上げて聞く記憶と、フィオを見つめて自ら発言する記憶の二種類が、混在している。

 途切れ途切れに、この時代でフィオと過ごした知らない記憶がよみがえってきた。


「さて。名前はなんと言ったかな、人間の少年」

「ジョット」


 ふたりきりになった空間で、ジョットと竜神は対峙した。物言わぬフィオの器だけが静かに見守っている。


「なにも覚えていないのだったな」

「いや……。だんだん思い出してきた」

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