273 より良い未来のため②

 ぐったりと横たわるフィオを見つけ、ジョットはいっしょにこの空間へ迷い込んだらしいテーゼを急かした。彼女は、今度はすんなり従った。見た目には床とも空中ともつかない場所に、ふわりと下りる。

 ジョットはがらんどうの空間へ飛び出した。駆ける足には地面のような硬い感触がある。けれど足音は少しも立たない。どう考えてもここは世界の理から外れている。


「フィオさんっ!」


 行き過ぎた足を、宙にいるフィオを見ながら引き戻す。フィオは桃色の雲といっしょに浮遊していた。金色の髪を広げ、ゆっくりとジョットの元へ下りてくる。

 力なく投げ出された四肢に、ジョットは両腕を差し出した。こちらへ向けられた顔は目を閉じていて、何度かこっそり見た寝顔のようにあどけない。

 ようやく会えた。震えるほどの喜びは、胸に突き立てられたナイフによって斬り裂かれる。


「あ、あ……ち、がう、こんなの……っ。フィオさ……まって」


 フィオの背に手を添え、漂う体をそっと足元に導く。触れた体は凍えているように冷たく、震えていた。血溜まりの中のナイフは、彼女の乳房の間――心臓を貫いている。

 戦慄わななく手を、ジョットはナイフの柄にかけた。引き抜こうとしたが、刃物がなくなった穴からまた大量の血が流れるかもしれないと恐れ、思い留まる。

 しかしフィオの命は、着実にこぼれつづけていた。


「どうしたらいい……くそっ。どうすれば!」


 わらにもすがる思いで、ジョットはナイフを避けて傷口に圧迫をかける。片手はフィオの手を握った。ライフルとハンドルでできた豆は記憶の通り、かさついて少し硬い。ジョットの大好きな手だ。

 でも、ぬくもりだけが足りない。


「ぐっ、う……」


 圧迫の痛みのせいか、フィオはうめいてうっすらとまぶたを開けた。


「フィオさん! 俺ですっ、ジョットです! わかりますか!? ご、ごめんなさい俺っ、力になれなくて……! 駆けつけるのが遅くて……! 俺はあなたの相棒なのにっ!」


 今にも落ちそうなまぶたを支え、震えるまつ毛の下、春の空色の瞳がゆっくりとジョットを映す。ひくひくと痙攣けいれんする体で、強張ったままの頬で、フィオはかすかに口角を上げ目を細めて笑った。

 瞬間、あふれ出してきた涙がジョットの視界を邪魔する。傷口を押さえていた血だらけの手でグッと拭い、フィオの手を両手で握り締めた。


「フィオさんっ、まだ寝ちゃダメですよ! あなたを現代に連れ戻すって言ったでしょ! それでベルフォーレレースに出てっ、優勝してっ、最終レースに行くんですから! あなたがロードスターになることが、俺の夢なんだよ! 話したいことだってたくさん――!」


 フィオのまつ毛が大きく下がった。息を殺すジョットの目の前で、一度持ち直しかけたまぶたは完全に閉じてしまう。

 痙攣が止まった。握った彼女の手が重くなった。


「フィオさん……?」


 拭いきれなかった涙がひと筋、頬を伝う。

 ジョットは身を乗り出し、おそるおそる呼吸を確かめる。まばゆかった金の髪が、可憐な花びらのようだった唇が、ころころ、くるくると豊かな色彩を魅せてくれた肌が、灰色にせていく。

 世界の光が彼岸に沈み、色をなにも感じられない。

 フィオの吐息は完全に止まっていた。


「お久しゅうございます、竜神様」


 ヴィゴーレの声がした。交信ではなく、耳から言葉が届いたようだった。ジョットの目は無意識に反応し、後ろを見る。

 するとヴィゴーレ、テーゼ、オルグリオ、イグナー、ロワ・ヨルムガンドのヘルツィヒが、姿勢よく座してひたとジョットを見ていた。

 ロワ・ヨルムガンドの名前をなぜ知っているのか、ジョットにもわからない。姿を見たら自然に思い浮かんでいた。


「その高貴なる光翼こうよくにお目にかかるのは、何百年ぶりでございましょうか。天上より高きよろこびを申し上げます」

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