272 より良い未来のため①

『俺は忘れない。忘れられない! 同朋たちと過ごした喜び、奪われた悲しみを!』


 オルグリオの慟哭どうこくが響き、鉤爪がフィオに迫る。


「やめろ! 止めてくれテーゼ! 追いかけるんだ!」


 テーゼが動き出すまでには、不自然な間があった。気のせいかと思えるような、きっと一秒くらいの違和感。しかしそれはすぐに確信へと変わり、ジョットを戦慄せんりつさせる。


「なんでこんな遅いんだよ!? もっと速度出せるだろ! 早くしないとフィオさんが――あ!」


 崩れ落ちる石門と重なって、ジョットの目にはフィオたちがオルグリオと衝突したように見えた。声も出ない恐怖に縛られる中、フィオは板にうまく乗って階段を滑り下りていく。

 赤土に投げ出された彼女が無事かどうか、空から確かめる術はない。


『言ったでしょう。オルグリオを説得することは無理だと』


 テーゼのどこまでも落ち着き払った声が、ジョットを逆なでる。


「違う! お前は止めようともしなかった! やってみなければわからないだろ!」

『わかりますよ。だから言ったでしょう、私は未来へ行ってきたと』

「あっ、フィオさん! よかった、動いてる」


 テーゼの言葉は半分もジョットに届いていなかった。フィオは立ち上がり、白い小さなドラゴンと傷ついたひな竜を運んでいく。大蛇に似たロワ・ヨルムガンドと竜鰭科ドラゴンたちの前にひざまずいた。

 その肩に寄り添う白いドラゴン。どういうわけか、ジョットは小竜を見た瞬間心臓が大きく脈動するのを感じた。

 早く駆けつけなければと頭ではわかっているのに、白い竜から目が離せない。強烈な既視感に襲われて、視界がぐにゃりと歪んでいく。


「なんだ、あいつは。何者なんだ……。知ってる……俺はあいつを、知ってる……?」


 その時、キンッと激しい耳鳴りとともに、フィオの叫びが響く。


『やめてえっ!』

「フィオさんっ、ダメだ!」


 つき添っていた男が、傷ついた竜にナイフを振りかざしていた。立ち上がり駆け出すフィオに、ジョットは届かない手を伸ばす。

 フィオと男が重なって、ふたりとも動かなくなった。

 ドラゴンの咆哮も、人々の喧騒も、風の音も、ぴたりとやんだせつなの静寂のあと、フィオが先に動いた。背中を丸め胸に手をやる。足がよろめき、ひざから崩れるように地面へと倒れた。

 横たわる彼女の胸にトゲが見える。ジョットは短く息を呑んだ。見る見るとフィオの服が赤く染まっていく。

 あれはトゲじゃない。ナイフだ。


『これが、ドラゴンと人のより良い未来のため』


 フィオさんは刺された。血がいっぱい出てる。助けなきゃ。止めないと。


『この未来へ導くためには、あなたを足止めする必要がありました。辛いでしょうが受け入れてください』


 止めないとフィオさんが死んじゃう。死ぬ。死ぬ。また目の前で。やっと見つけたのに!


「うそだ……いやだっ……フィオさあああんっ!」


 その時、どこからか高く澄んだ声が響いた。美しい歌声のようにも、嘆き悲しむ泣き声にも聞こえる声音こわねとともに、風の波紋が大地を駆ける。

 それはフィオを刺した男の後方を中心にして、さざ波のように赤土を舞い上げ、ドラゴンの群の間を抜けてどこまでも広がった。

 ジョットが波紋の中央に白い小竜を見つけた時、小さな体からあふれる光が強く弾ける。閃光はジョットも山の族長もチェイスも包んで視界を奪い、燃える大地とヒルトップ村を白く掻き消した。


「……フィオさん? フィオさんどこ。フィオさんっ」


 光に目がだんだん慣れてくると、あたりの様子が見えてきた。周りにはなにもない。淡い桃色の雲のようなものが漂い、白い空間が見渡す限り広がっている。

 いや、そう見えるだけかもしれない。村も赤岩も、空と大地の別もない空間は、恐ろしいほど空虚だった。


「フィオさん!? 降ろせテーゼ! 早く!」

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