263 チェイス、その名は①

 ともに、やぐらに上がってきた平原の族長が声を荒げる。彼の背丈に見合った長剣が抜かれようとするのを見て、チェイスは柄を押し留めた。


「あれに勝つ気でいたと思うと笑えてくる。あれは海そのものだ」

「……確かに我々は、神を相手にしようとしていたのかも知れぬ。牙を向けた時点で、我々は負けていたのか」

「勝つとか負けるとかじゃねえ。戦いを終わらせればいいんだ!」


 投石機を用意! チェイスの号令が響く。


「設置するのはすべて発煙弾だ! 間違っても炸裂弾や石弾は使うな!」


 指示は徹底周知させ、合図があるまで動くなと厳命する。平原の族長が、指令官はチェイスだと全権を委ねてくれたお蔭で、平原の民との連携もつづがなく取ることができた。

 今やふたつの民族の命運が、チェイスの肩に伸しかかっている。

 嫁は間に合うのか? 間に合ったとして、ヌシは鎮まってくれるのか?

 もし選択が間違っていたら、信じてくれた者たちは、村は、ドラゴンに蹂躙じゅうりんされていくのをただ見ていることしかできない。


「それならいっそ、一矢報いるか……」


 衝動に震えた手を、チェイスはきつく握って欄干らんかんに打ちつける。


「違う、そうじゃないっ。嫁を見ろ、ひな竜を見ろ。そこに答えがある……! あの未来に俺たちだって辿り着けるはずだ、なあそうだろプッチ!」


 おそるおそる触れたドラゴンのひなは、想像よりも弱々しく儚かった。チェイスを見上げた曇天色の目は、間違いなく怯えていて、まるでドラゴンが怖いと母にすがる自分と同じだった。

 噛まれながらもせっせと食べ物を運んだのは、ひなの罪悪感がわかったからだ。そっぽを向かれても話しかけずにいられなかったのは、そっと耳を傾けていると感じたからだ。

 言葉がわからなくても伝わった。目と目が合えば心が見えた。プッチの信頼、愛情、ずっといっしょにいたい願い。それは全部チェイスの想いでもあったから。


「夢なんかじゃない。プッチと嫁が見せてくれたのは、確かな未来だ……!」


 その時、チェイスは首筋をひやりと這うものを感じた。弾かれるように振り仰ぐと同時に、新たな警鐘がかしましく走る。


「ドラゴンだ! 北西上空に新たな巨影! コウモリドラゴンの親玉です……!」


 見張りの必死な報告は、引きつれた悲鳴に変わった。青空の一点の染みでしかなかった巨影は、瞬く間に舞い下り、突風を従えてやぐらに襲いかかる。

 鉤爪によって砕かれる石塔、振り抜かれた翼腕に叩きつけられ、石材も鐘も人も、一瞬にして灰塵かいじんと化した。

 再び空へ羽ばたいた六枚羽に、チェイスは息を呑む。


――私を置いて行きなさい!


 忘れもしない。その翼の先端に生えた黒い鉤爪に、引き裂かれて絶命した父の姿を。


――お前は生きろチェイス! 俺の分まで!


 強靭な脚に捕まって連れ去られ、成す術なく落ちていく兄の声を。

 おだやかな家族の時間も、ささやかな幸せも、母の心からの笑顔も、あの六枚羽が奪っていった。


「引き返してくる!? チェイス殿こっちに来るぞ! 逃げろ!」


 身をひるがえした六枚羽の翼竜を見て、平原の族長は階段へ急ぐ。矢も投石機も届かない高みから、身を槍にして急降下するドラゴンとチェイスの目が合った。

 血のように赤い残忍な眼光が、胸の奥にこびりついた焦燥と憎悪を照らし出す。

 身の内を焦がす猛りに、チェイスはしかし歯を突き立てて噛み切った。欄干に乗り上げ、六枚羽の竜に向かって叫ぶ。


「もう奪わないでくれ! 殺すことも殺されることも望まない! もう誰の血も流れさせたくねえんだよ……っ!」


 切なる願いは、凶悪な咆哮に掻き消される。三日月のように曲がった鉤爪が、チェイスの眼前に振りかざされた。その時、一陣の風が駆け抜ける。

 あまりの強風にチェイスは腕で顔をかばった。荒々しいドラゴンの声がふたつ耳に飛び込んできて、新手かと慌てて目を起こす。


「え……」

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