262 民よ、奮起せよ

 くすりと笑って、フィオはパヴリン・テイルの首をなでる。六又の翼竜科は背を反らし、胸部をぱんぱんにふくらませたかと思うと、天空に咆哮をとどろかせた。

 覇気を帯びたその声は、右往左往する人々の意識を奪って釘づけにさせる。


「ありがとう、嫁。六又ドラゴン」


 チェイスの礼を、フィオとパヴリン・テイルは手と尾を上げて受けとめた。


「聞け! 岩の民たち。嫁がドラゴンのひなを癒して群に返す。俺たちはその時間稼ぎをする! 赤岩の周りに生えているシッポ草を燃やせ! 白いふわふわがついた草だ! ドラゴンが嫌がる! 俺に納得できない者は今すぐ逃げろ。咎めはしない。山の民も平原の民もそうだ。俺の家の裏手に階段がある。そこから行け! 火の手が上がる前に! 俺についてくる者はたいまつを持て!」


 長の声に応えて岩の民たちは拳を突き上げる。軽やかに観戦席へ駆け上がったチェイスにつづいて、一斉に移動をはじめた。岩の民の中に逃げ出す者はひとりもいない。


「ここまで来れば死ぬも生きるも同じ! 平原の民もともに行くぞ! 新しい価値観とやらを見せてもらおう!」


 その時、平原の族長が奮起した。逃げられないと腹を括ったか、本当にチェイスの考えに賛同したのか、真意はわからない。

 族長は長剣を掲げて民を鼓舞する。戸惑う者も多かったが、迷いのない岩の民に押されるように声を上げはじめた。

 時が動き出す。風がチェイスへと流れている。


「あなたは住処に帰りなさい。ここにいたら巻き込まれる」


 荷車が破った大扉を指して、フィオはパヴリン・テイルの頭をなでた。その手を大人しく受けながら、ドラゴンは気遣うような声をこぼす。だいじょうぶだと微笑んで、フィオは首を軽く打った。

 それを合図に、優美な六又の尾をなびかせてパヴリン・テイルは走り出す。通路の影に見えなくなってすぐ、羽ばたきの音が聞こえ、白い体躯が鉄格子の向こうへ飛び立っていった。


「フィオさん!」

「きゅあ!」


 呼ばれて振り返ると、レイラが小竜とともに走り寄ってくるところだった。彼女の腕には何枚もの布と、革袋が抱えられている。小竜も口に袋をくわえていた。


「グミ草が必要だと聞いて、近くの家から掻き集めてきたわ! 布も!」

「レイラさん、ありがとうございます! おチビさんもありがとう! さっそくですみませんが、果肉を押し出してほぐしておいてもらえますか?」


 指示を出しながら、フィオはブレ・プテリギオのひれを持ち上げる。そこに刺さった鉤針を慎重に抜きにかかった。

 そんなフィオとレイラと小竜を横目に、闘技場コロセウムには山の族長とその民たちが、武器を携えたままじっと留まっていた。



 * * *



「火を放て! たいまつも火矢もどんどん放り込め! ためらうな!」


 東のやぐらに上がって、チェイスは眼下の民たちに指示を飛ばす。次々と投げ込まれたたいまつや火矢は、荒野を渡る乾いた風に煽られて広がり、シッポ草の草原から煙が立ち昇りはじめた。

 その白煙の向こうに、ひしめく黒い影が見える。

 ごつごつとした岩のようなものを背負って地を這う者、枝葉のように細い四肢と広がった突起物を持つ者、槍のようにまっすぐな角の生えた者。チェイスが見たことも聞いたこともない、ドラゴンなのかさえわからない生物たちが、ひとつの津波となって迫っていた。

 中でも、この距離からでもはっきりと捉えられる巨影に、口の中が干からびていく。


「あれは、山か……。山が動いている……!」


 津波を扇動するのが、山と見紛う巨大なドラゴンだった。手脚や翼はなく、つるりと丸い頭部から四枚のひれを広げている。青く陽光を弾く胴は、太くて長大だ。

 あたりを浮遊する布のようなドラゴンが羽虫くらい小さく見えることから、もしかしたらヒルトップを赤岩ごと容易に囲い込める大きさかもしれない。

 あれが海のヌシだ。チェイスはそう確信した。


「こんな煙が本当に効くのか!? どれくらい持つんだ!?」

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