233 竜狂いの森①

 頭をポンと打つ手に誘われ顔を上げると、チェイスは小さく笑った。その顔は母レイラと重なって、頬をゆるめると案外あどけなさが浮かび上がる。

 手を引かれるまま、フィオは敷物に沈んだ。抱き込もうとするチェイスの手足を好きにさせ、彼の胸にすっぽり収まる。


「おやすみ、嫁」


 あいさつといっしょに、軽いキスが額に落ちてきた。

 その瞬間フィオが思い出したのは、シャルルだ。いつも体の一部が触れていないと落ち着かない甘えん坊。くっついて寝たがる彼は、少しシャルルと似ている。


「チェイス」

「ん?」

「おやすみ」

「ふふっ。いいもんだな、あいさつが返ってくるってのは」


 満足げなチェイスの笑顔は、フィオの心も満たした。自然と重くなるまぶたに抗わず、目を閉じる。後頭部に回ったチェイスの手に、隙間なく抱き締められた時、誰かに呼ばれたような気がした。

 そういえば、おチビさんといっしょに感じたもうひとつの気配、あれはなんだったんだろう。



 * * *



 五日ぶりに吸った外の空気は、いろんなにおいがした。水のにおい、湿った土の香り、朽ちていく枯れ葉の香気。風向きが変われば家畜たちのにおいも漂ってくる。

 その中に混じる、こちらを探るような気配はロワ・アンティーコトラヴァーのものだ。


「テーゼ。現代よりも高圧的だな。本当に神みたいだ」

「ジョット! もう起きてだいじょうぶなの?」


 洗い物が積まれたかごを持って、少女が駆け寄ってくる。肩に羽織ったクリーム色のケープが、ひらりと揺れた。ふたつに分けたおさげ髪の緑色と、円らな茶色の目は、あの女性記者とよく似ている。

 少女をはじめて見た時、ジョットは時空間移動の光に入り損ねたのかと青ざめたものだ。


「ココ! すっかりよくなったよ。ありがとう。ココが看病してくれたお蔭だ」


 笑いかけると、ココは体を揺らして照れくさそうにはにかむ。聞けば彼女はひとつ下の十三歳で、ジョットが世話になっている家の長女だ。父親が行商に出かけている間、身重の母を支えてよく働いている。

 けれど、ふと見せる表情は年相応で、ジョットは風邪で寝込んでいた五日間、ココへの感謝と申し訳ない気持ちが絶えなかった。


「それ、これから干すんだろ? 手伝うよ」

「うん! ありがとう」


 樹上の家と家を繋ぐ橋と平行して、洗濯ひもが渡してある。その両端は木の滑車にかけられていて、手繰り寄せればひもが流れてくる仕組みだ。

 よくできてるなと思いつつ、ジョットはココから渡される洗濯物をひもに留めていった。


「ねえねえ。ジョットはどこから来たの?」


 手を動かしながらココが尋ねてくる。その声は弾んでいて、ずっと聞きたかったんだとうずいていた。


「すごく遠くから。海を渡ってきたんだ」

「海!? すごい! どうやって渡ってきたの?」

「船を乗り継いだ。それにの力も借りたんだ、たくさんね。急いでて寝ない日もあったから、それで熱が出たんだろうな」

「動物? 鳥に掴まって飛んできたの?」

「まあ、そんなところ」


 笑って濁すジョットを、ココは不思議そうに見ていた。

 キースと別れたあとも、ジョットの心は晴れることがなかった。イヤリング型伝心石を手放せばすっきりすると思ったのに、今度は隙間風が入り込んでくるようになった。寒くて、ビュウビュウとうるさくて、心を責め立ててくる。

 気づけば、シャンディ諸島国を出る準備をしていた。

 なにをやってるんだ?

 どこに行くんだ?

 自問がぐるぐると頭を巡り、何度もやめろと言い聞かせた。けれど、リヴァイアンドロス家の敷地を出た瞬間、足は勝手に走り出していた。

 ベルフォーレ特保とくほ国行きのドラゴン便を探しはじめて、ようやく気づいた。いや、気づかないふりをしていただけだ。ジョットはそれに関わるとバカになり、泥酔した大人のように前後不覚になる。

 ジョット・ウォーレスはフィオ・ベネットに狂っているのだ。

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