230 痛み②

「俺が間違えたのはそのあとだ。薬で錯乱していようと、しょせんは一時的なこと。殺しておくべきだった。今頃やつは、俺を食い損ねたと悔しがっているだろうよ」

「チェイス! 違うの! 薬じゃない! あれはあなたとドラゴンの信――」

「黙れ! たとえ毒に冒されていようが」


 フィオを一蹴したチェイスの目が、鋭く小竜をにらみつける。


「ひなだろうが、ドラゴンは一匹残らず殺す! それが族長、このチェイス様に与えられた使命だ!」


 深く沈み込んだかと思うと、チェイスは大きく踏み出した。長の責務に立ち向かう、彼のまっすぐな魂を鍛えたかのような大身おおみの穂が、小竜へ突き迫る。

 やめて!

 とっさにフィオは叫んだ。しかしのどが締まって、それは音にならなかった。

 澄んだ目をチェイスに注いだまま、小竜は宙へ逃げる。それを追ってチェイスは槍を斬り上げる。高く鳴る風のうなり。カコンと割れた桶から水が流れる。

 しかしチェイスの目は、濡れる敷物も床も気にしていなかった。しっぽをまるめて斬撃を軽くかわした小竜だけに絞られ、すばやい突きをくり出す。


「チェイス……」


 気遣わしげなレイラの声がこぼれる。母は息子を止めなかったが、加勢するというわけでもなかった。

 小竜を見る目には、少なくとも嫌悪はない。まるでチェイスと小竜、どちらの身も案じるような彼女に、フィオは引っかかりを覚えた。


「くそドラゴンがっ。俺の前から消えろ! 村から出ていけ! 目障りなんだよ!」


 チェイスの猛攻を、小竜はしなやかな身のこなしで避けていく。風と戯れる木の葉のように、空を泳ぐ雲のように、掴みどころがない無垢な羽ばたきは、いっそ懐いているかのようだ。

 槍を奮うチェイスは、フィオの目には本気に映っている。眼光の鋭さも体の動きも、マティ・ヴェヒターと対峙した時の比ではない。それなのに、小竜からチェイスへの信頼は、一切解けなかった。

 次第に大身槍の筋に迷いが出る。フィオは痛む足を奮い立たせた。


「チェイス、いくら焚きつけても、この子は戦わないよ。逃げることもない。さっきこの子は鼻を動かして、あなたの様子をうかがってた。怪我を心配してたの。認めてるんだよ、もう友だちだって」

「この子? 友だち? はんっ。竜狂いはやっぱりイカれてやがる。お前はこのケダモノどもに、大切な人を殺されたことがねえんだろ。だからそんな甘いことが言える!」


 俺は! 胸をあえがせたチェイスの目が、痛みを堪えるように歪む。


「父上と兄上をこいつらに殺された! 目の前で……!」


 もう一本の槍をわし掴みにし、チェイスは高々と掲げた。


「族長になった日、俺は父上と兄上の墓前で誓った。かたきは必ずとると! そして、たらふく飯を食って安心して眠れるドラゴンのいない世界を作る! 俺が信じるのは薬でも魔術でもない。力だ!」


 再び槍を構えるチェイスを見て、フィオは小竜を抱えた。足を引きずりながら、すだれを揺らして出ていく。チェイスもレイラも引き止めようとはしなかった。

 心は打ちひしがれていた。ここにいても、もう自分にできることはないと思えた。けれど傷の痛み以上に胸が重くて、歩けない。

 庭をさ迷って、結局階段井戸の縁に腰を下ろした。


「言っていいのか、わからなかったんだ」


 ひざに乗せた小竜は暖かかった。なでる手の下で、小さな体が振り向く。


「私も、兄をドラゴンに殺されてるって。だけど事実は同じでも、背景が違う。私とチェイスの境遇をいっしょにしちゃ、いけないと思って……」


 風が流れる。乾いた土が飛んでいく。瞬いた拍子に映る、兄の死に顔。何度もくり返されるあっけない鈍い音。


「それでもまだ、シャルルを愛している私はおかしい? 現代ライダーの代表みたいな顔して、千年前まで来た私は狂ってるのかな。ドラゴンと共存したいのは、ただの、私のわがまま……」

「フィオさん、隣いいかしら?」

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