226 脱走②

 シッポ草畑はおチビさんのお気に入りらしい。背の高い草むらは身を隠せて、狩りをするにも外敵から身を守るにも、打ってつけだ。もしかしたら住処なのかもしれない。

 仰向けになって器用に飛び、花穂で背中を掻く小竜に笑みがこぼれる。


「じゃあ元気でね、おチビさん。チェイスには気をつけるんだよ」


 もう小竜がつき合う理由はないと思った。胸元まであるシッポ草を掻き分けて、フィオはベルフォーレの森を目指す。

 こうなってしまえば、頼りの綱は竜狂いの民だけだ。

 だが目の前を小竜がサッと横切り、足を止められる。おチビはしきりにぎゅあぎゅあと鳴いた。


「そっちは谷だって警告してくれてるの? だいじょうぶだよ、わかってる。渡れるかどうか、見てみないことにはね」


 ずんずん進むフィオの周りを、小竜は慌ただしく飛び回る。時折頭で肩を押したり、首のひもを引っ張ってきたりした。

 その様子はなにかに恐れているようでもあり、だんだんフィオの胸にも緊張が芽生えてくる。

 周囲に目を走らせるが、ドラゴンはおろか野生動物もいない。聞こえてくるのは風の音と、シッポ草のささめきばかり。お茶でもしたくなるうららかな午後だ。


「怖くない、怖くない。シャルルとキースを助けるんだから」


 ふと、あたりが影に覆われた。雲が出てきたか。空を見上げようとした時、耳に風を裂くうなりが届く。


「ぎゅあ!」


 小竜の警報とともに、フィオはすばやくしゃがんだ。その頭上を突風が駆け抜け、シッポ草たちが大きくなぎ倒されていく。

 顫動せんどうする翼腕。一切の無駄を削ぎ落とした赤茶の体躯。


「翼竜科……」


 振り向いた三対の目は、一斉に動いてフィオを捉える。


「マティ・ヴェヒター! ここはあの子の縄張りか……!」


 刃と刃をすり合わせるようなかん高い咆哮が空を叩く。フィオは走り出した。ヒルトップ村に背を向け、ドラゴンの注目を自分だけに集める。

 そして手当たり次第、シッポ草の花穂を摘み取っていった。


「低く飛んで! 来るよ!」


 ついてきた小竜の背後、マティ・ヴェヒターがオレンジ色の目をかっ開き、脚の鉤爪を剥く。フィオは腹這いになって地面へ飛び込んだ。フィオもシッポ草も根こそぎ奪われそうな突風が、耳のそばを通る。


「草むらに隠れながら逃げなさい! あなたなら見つからない!」


 小竜がいた草影に向かって叫ぶや否や、フィオは立ち上がった。瞬間、踏み出した足のつけ根が痛む。腰から脊髄せきずいを上り、歯まで響いた激痛に息を噛んだ。

 しかし構っている時間はない。恐れ戦く下肢を引きずり、大地を蹴る。


「もっと、もっとシッポ草……!」


 羽音が頭上で鳴る。陽光を弾いたマティ・ヴェヒターは、六つの目玉を足の悪い獲物に定め、翼に集めた風を叩きつける。

 大空たいくうの監視者の鎌爪かまつめは重力に乗り、小枝に等しい人間の首へと迫った。


「ぎゅあ! ぎゅあ!」


 その時、草むらから小竜が飛び出す。小さな体は白羽の矢のようにまっすぐ、翼竜科の頭に突進した。

 弾かれるようにマティ・ヴェヒターが止まる。鋭い雄叫びが空に響く。

 小竜は相手の顔にかじりついていた。ちょうど目のあたり。激しく振り回されても爪を立てて耐える。マティ・ヴェヒターは地面に下り、がむしゃらに体を振った。草原を踏み荒らしながら、その場で一回転する。

 ムチのようにしなった尾が、シッポ草を真っ二つに狩り取った。間一髪、その打撃は免れたものの、フィオは風圧でよろめく。石につまずき、地面にドッと倒れた。

 そこへ、ひと際激しい咆哮が耳をつんざく。


「おチビ……!」


 視界の端、振り払われた小竜が草むらに消えていった。血が凍りつくフィオの足になにか、ひたひたと滴る。風がうなじに触れた。生物の腐ったにおいが、胃を痙攣けいれんさせる。

 手足が寒い。なのに額から汗が噴き出る。

 シャルルの牙を思い出し、震えることしかできないフィオを、肩からぬっと突き出た三つの目玉が嘲笑った。

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