225 脱走①
「触らないで!」
思っていたよりも大きな声が出た。フィオは夢中でネックレスを奪い返す。宝物を無遠慮に触られたような、心のやわらかいところを踏み荒らされたような気持ちだった。
チェイスはしばし驚いていた顔に、深くしわを刻む。フィオが手のひらの中に隠したネックレスをにらみつけ、指をこじ開けにかかった。
「なんだよ。隠されると気になるだろ。それは母親からゆずり受けたものか?」
「違う! でも大事なものなの」
「へえ? 前の夫からの贈りものだったら、味見だけじゃ済まねえぞ」
「そんな人よりもっと良い人だよ!」
替えなんてきかない唯一無二の存在だった。
私の願いは、はじまらなかった。あなたなしでは。
最高の
「ジョットくん……」
その時フィオの脳裏で、ふたつの星が瞬いた。よく似た色の双子星は、片方がぐんぐん光を増して月のように大きくなる。
「ぎゅあ!」
「なんだ!?」
突然、窓から白い
身をひるがえしたドラゴンは、フィオに向かって鳴く。来い、と言っている。
体勢を崩したチェイスを押しのけ、フィオは戸口へ走った。渡り廊下から集会所を突っきり、五重門を抜けて階段を駆け下りる。石材や仕留めた食料を運ぶ男衆の間を、構わず縫っていった。
きょとんと首をひねった若者も、族長の客人だと察した年輩者も、踊り子のあとを追うひな竜を見てぎょっとする。
後ろの騒ぎには目もくれず疾走するフィオは、赤岩に刻まれた急勾配の階段へと差しかかった。
「きゅーい、きゅーい」
「連れてってくれるの?」
そろそろと下りていたフィオは、小竜の低い高度にピンときた。両手を空に伸ばすと、小竜が舞い下りてきて前脚を差し出す。そこに掴まると、やわらかな風がフィオを囲んで、足裏から支えた。
小竜の翼が操る風のマナだ。
足が地から離れる。服がはためく。風が頬をなでていく。
「ああ、そうだ。世界はこんなにも美しかったよね」
どこまでも突き抜ける青い空と、赤土の遥かな大地が、目の前に広がっている。どれほど遠いか計り知れない地平線には、純白の雲が浮かび、世界の輪郭を影と光で描いていた。
陽はあたたく、風は心地よく、誰の上にも等しく降り注ぐ。
「これがあなたたちの見ている世界。私の、生きている世界。いつだってシャルルが教えてくれた」
不思議そうな鳴き声が落ちてくる。フィオはごめんと笑って、小竜のひなた色の目を見上げた。
「今見せてくれてるのはあなただよね。ねえ、よかったらこのままコズモエンデバレーを越えてくれるかな? あっちだよ。谷のほう」
言葉は伝わらなかっただろうけど、フィオが北を指すと小竜はゆったり旋回しはじめた。ヒルトップ村のある赤岩を迂回する風に乗る。
眼下は白いかすみのようなものが群れを成し、波打っていた。
「わあ。これ全部シッポ草だよね。すごい。岩を囲ってる。昔はこんなに生えてたんだ」
遠くにはコズモエンデバレーの尖った山々も見える。そういえば、千年前も谷は底なしの深さなのだろうか。できれば向こう岸まで、幅が狭くなっていたらいいが。
などと考えていたら、小竜の高度が下がってきてしまった。
「もっと先だよ!」
声は届かず、フィオの足はシッポ草畑に着地する。
「疲れた? なんてことはないよね」
肩にとまった小竜に首をかしげると、同じ方向に小さい頭も傾いた。小竜と言えどドラゴン。強靭な翼と風のマナで、大人ひとり運ぶなど造作もない。
無垢な目はなにかを捉えて、肩から飛び出した。翼でなでるようにシッポ草の上を滑り、舞い上がった香りを吸い込んでは機嫌よくのどを鳴らす。
「そっか。私にこれを見せてくれたんだね」
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