216 嫁宣言①

 しかし床には動物の毛皮が敷いてあり、焼き物の器や水差しなど生活感が漂う。現代の一般家庭にはまずない、立てかけられた槍にはぎょっとしたが、敷物の上に下ろされてフィオは息をつけた。


「で。邪教の民の名前をまだ聞いてなかったよな」


 向かい合わせにあぐらを掻いたチェイスから、期待の目を向けられる。フィオは居心地悪く、土だらけの足指を動かした。


「フィオですけど」

「フィオか。よし、嫁だな!」

「よめ……?」


 古代語か。方言か。暗号か。

 突然のことに、なにを言われたかさっぱりわからない。ついまじまじとチェイスを見つめる。

 すると彼はなにか気づいた顔になって、手をつきズイと近づいてきた。

 肩を掴まれてからまずいと思った。彼は無表情だった。だからこそ、その目に浮かぶ熱に気づかされる。

 縛られていることも忘れて縄をギシリと鳴らした時、チェイスの影が落ちてきた。


「あらあら、お熱いわねえ。やだわ、チェイス。そんな相手がいるなら言って欲しかったわ」


 降って湧いた女性の声に、フィオは肩が飛び跳ねた。振り返ったチェイスが嬉々と立ち上がる。


「母上! こいつはさっき拾って今嫁にしたフィオだ」

「まあ。お父様より早い決断と行動力。さすがチェイスだわ。ふふふっ、素敵なお嬢さんね。私はレイラ。チェイスの母です」


 白に近い金の髪がさらりと揺れ、レイラはフィオに優雅なお辞儀をする。長い前髪を左右に分け、澄んだ水色の瞳がよく見える、上品な佇まいの女性だった。

 夏草色のワンピースは床をするほど裾が長い。袖は現代では見かけなくなった、肘に向けて大きく広がるハグパイプ形だ。

 やわらかく微笑まれて、フィオもつい笑い返す。が、のほほんとしている場合ではない。


「ち、違います! 嫁ではなく、私はただの行き倒れでして……! 少しお世話になっているだけなんです!」

「あら。そんなかしこまらなくてもいいのよ」


 レイラは水を張った桶を脇に置いて、フィオの頬をそっとなでた。その手触りのよさに一瞬、フィオの意識が持っていかれる。ゆでたまごのようにツルツルした、もちもちのパン種に包まれているかのようだった。

 加えて、森のカナリアと名高い植物科フォレ・カナレイカを彷彿ほうふつとさせる声が、心地よく鼓膜を揺らす。


「身分差なんかに捕らわれないで。あなたは族長の妻に相応しい素質を持っているわ」

「え。いやだから、妻じゃなくて」

「発育のいい体格、肉がしっかりついた健やかな肌。おまけに意思の強そうな目も長の妻にぴったりだわ」


 フィオの肩に手を置くと、レイラは顔を寄せてささやく。


「元気な子をどんどん産んでくださいね。特に世継ぎとなる男児は、ふたりでも三人でも大歓迎よ」


 茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせ、レイラは身を離す。桶の水で足を洗っているチェイスに、「済んだら廊下に出しておいてね」と声をかけ、出ていった。

 彼女の腰まである長い金髪がすだれの向こうに消えるまで、フィオは開いた口が塞がらなかった。病衣を押し上げる下腹に目をやる。


「つまりデブってことですかあああ!? ああそうですよ! フライドポテトもパンケーキもホットケーキもタルトも食べましたよ! そりゃ太るよね!」

「なに怒ってるんだ。母上は褒めただろ。世継ぎを成すのに完璧な体だ。これほど玉のような女と俺は出会ったことがない」


 木綿の布で水気を拭いながら、チェイスは平然と言う。フィオはキッとにらみつけた。


「肉づきのよさが褒め言葉になるかあ! 私はレース、あ、いや、身軽でいたい人なの!」

「ま、人それぞれに理想の体型はあるよな。それに邪教の村ではどうなのか、俺は知らない」


 桶をフィオに寄せて、チェイスは向かい合ってしゃがんだ。そして、なんでもない顔でフィオの足を掴み、水に浸す。

 ぱしゃりと水をかけられ、フィオは目をまるくした。自分でやると言おうとしたが、チェイスが「でも」と言葉をつづける。

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