211 その男の名は①

 笑いながらやんわりとやめさせる。フィオの手が近づいても、ドラゴンはもう噛もうとしなかった。


「動きづらいと思うけど、我慢してね。いじらなければ傷はちゃんと塞がるよ。って、言ってわかってくれるかな」


 つい、シャルルと同じように話してしまい苦笑する。現代のドラゴンなら理解してくれただろうが、小さなドラゴンは聞いているかも怪しかった。また別のにおいを捉えたようで、鼻をフンフン鳴らしている。

 フィオはドラゴンの好きにさせ、傷口から抜いたトゲに目をやった。


「これ……矢尻? このドラゴンは人間に襲われていたの?」


 黒い光沢を放つトゲは、先端が鋭利に加工されていた。逆刺部かえりぶの鋭い角度に、背筋が粟立つ。刺さった矢が簡単に抜けないようにするための構造。標的への明確な殺意がこもっていた。

 ふと、ひざに重みを感じてフィオは我に返る。ドラゴンが上ってきていた。まだ鼻を動かしてなにか探している。グミ草かな? そう思った時濡れた鼻先が腕に触れ、噛み傷に舌が這わされた。


「あなた……」


 思わず腕を引いても、ドラゴンはぴたりとついてきた。一心不乱にフィオの傷を舐める。謝るかのように、願うかのように。血を舐め取っても飽き足らず、だ液を余すところなく塗り込めていく。

 堪らなくなって、フィオはドラゴンの小さな体を抱き締めた。


「あなただって痛いのにっ。人間に怖い思いをしたのに……! やさしい子。ごめんね……」


 フィオの行動に驚いていたドラゴンだが、この時ばかりは静かに耳を傾けているようだった。

 しかし、じっとしている時間は短かった。今度は白い顔がぬっと眼前に迫り、口元を容赦なく舐め回してくる。フィオはびっくりして仰け反り、尻もちをついた。

 これ幸いとばかりにドラゴンは乗り上げてきて、フィオの顔をべとべとにする。


「あー! はいはいわかりました。元気出たから! もういいです! もうだいじょうぶ!」


 脇を掴んで引き剥がす。ベリッと粘着質な音がしそうなくらい、体重がかかっていた。だが小柄はいいものだ。これがシャルルだったら、フィオには選択肢など与えられない。


「へえ。あなた目が金色だ。ジョットくんと同じだね」


 ひと通り舐めて満足げなドラゴンの目は、ひなた色だ。角の短角はきれいに取れている。幼体ではなく、小竜科に属するらしい。


「でも彼と違って成人してるんだね。あなたのほうがお兄さんだ」


 フィオがなにに笑ったのかなんて、ドラゴンにはわからない。それでも小竜はうれしそうに高い声で鳴いた。


「いたぞ! こちらです!」

「女が襲われています!」


 長い弓と槍を持ったふたりの男が現れたのは、その時だった。彼らはフィオとドラゴンを見て青ざめ、後方に向かって叫ぶ。

 あとからやってきたのは若い男だった。

 二十代半ばに見える男は、長身で体格がいい。髪は金色で、鎖骨まで伸びた毛先は青に染まっていた。珍しい髪色にフィオは既視感を覚える。


「俺がやる。槍を貸せ」


 若い男は年上に見える両脇の男たちに、横柄に言った。チュニックとパンツは三人とも同じだが、肩から腰へ斜めがけにした青い布の存在感が、他と一線を画している。

 槍を手に進み出る男を前に、フィオは起き上がり小竜を背に隠した。


「あなた方がこのドラゴンに弓を向けたんですか」

「あ? 女、動けるなら下がってろ。危ないぞ」

「危険なのはあなた方のほうです。見てわかりませんか。この子に敵意がないことが」

「なにを言ってるんだ? ドラゴンは見たら殺す。当たり前だろ。そこをどけ」

「嫌です」


 ぴしゃりと跳ねのけながら、フィオは立ち上がった。

 若い男の眉間にしわが寄る。穂がまっすぐに鍛えられた素槍すやりの先端が、フィオに突きつけられた。


「気でも狂ったか? てめえだって腕を噛まれてんじゃねえか。ドラゴンはどいつも残忍な殺し屋だ。小さいひなだろうと例外なんてない! らなきゃられるんだよ。わかったらさっさと失せろ!」

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