207 旅立ち①

 ですが、とテーゼはひすい色の瞳を細めた。


『私は老い、力も衰えました。そもそも時渡りは、膨大な生命力を要します』


 フィオはハッと枯れた片翼を見た。色を失い、細く干からびた枝はまるで、生命力を吸い取られたかのようだ。


『この時渡りが最期です。フィオを送り返してあげることはできないでしょう。戦争に巻き込まれ、命を落とす危険もあります』


 テーゼは命を懸ける覚悟だ。同じ覚悟があるかとフィオに問いかけている。

 千年前だの人竜戦争だの、途方もなくて正直、話を理解するだけでいっぱいいっぱいだ。なぜ私なのか? 意味がわからなさ過ぎて、腹も立ってくる。

 けれど覚悟なら、問うまでもない。

 ファース村を出発した日から、ロードスターに焦がれた日から、決めていた。


「テーゼ。私が知りたいのは危険性じゃない。私が過去に行くことで、シャルルとキースが助かるのかどうか。それだけだよ」

『……戦争を阻止すれば、人とドラゴンが争うことはなくなり、現代への影響も消えます。あなたのドラゴンが暴走することはありません。つまり、若者の命も救われます』

「じゃあ決まりだ。今すぐ行こう!」


 にっと笑ってフィオは立ち上がった。急な動きに、体中のあちこちが文句を飛ばしてくる。

 心配ごとと言えばこの体だ。首元の咬傷こうしょうよりも足の患部が不安だった。しかし同時に、それがフィオを急き立てる。


『フィオ、かなり無理をしていますね? 今すぐでなくとも構いません。まずはその傷を癒すことが先です』

「ううん。今行くよ。傷を治してる間に、足が動かなくなったら困るから」

『ですが……。会っておきたい人もいるでしょう?』

「いないよ。私は全部失った。両親も、相棒も、最愛の兄も、夢も……」


 脳裏に金色の光が瞬いて、フィオは口をつぐむ。無垢な心を表すような、混じりけのない黒髪。そこにはいつも色とりどりのヘアピンが、誇らしげに掲げられていた。

 思い浮かぶ表情は笑顔で、いつだってうれしそうにフィオを呼ぶ。

 ジョット。

 心残りと言えば、彼にお礼を言えなかったことだ。けれどもう彼に、フィオは必要ない。婚約者の元に戻った今、会ったとしても迷惑になるだけだ。


「未練なんてない。私にはもう。それともテーゼ、あなたはもう少し時間が欲しい?」

『いいえ。私は老いた身。この日が来ることはわかっていました。彼女たちも』


 テーゼの目がフィオを越える。その視線を辿ると、島からこちらを見守るミミたちがいた。

 視線に気づいたミミの肩がひくりと震える。


「行くって、どこに行くんですかフィオさん! テーゼはなんて言ってるんですか!」

「もちろん暴走事件を解決しに行くんだよ! 時間がないから今から行ってくるね!」


 対岸がざわめく。ランティスがなにごとか聞き返してきた。しかしフィオは意識をテーゼに向け、心で語りかける。


『ミミたちに伝えたいことはある?』

『……苦労をかけました。今までありがとう、と。それと、もうひとり――』


 しかとうなずいて、島に向き直る。みんなつま先が水に浸るほど、身を乗り出していた。大きく息を吸って、フィオは笑顔で告げる。


「テーゼから伝言! 苦労をかけました! 今までありがとう!」


 みんなの頬が一様に強張り、目を見開く。フィオはテーゼにうながされ、彼女の背中に跨がった。

 古木が起き上がる。苔といっしょに表皮をパラパラとこぼしながら。

 葉をつけた片翼をザンと振れば、青緑色の風が巻き起こる。その中を光の砂が舞っていた。フィオの耳元をかすめると、様々な声が聞こえてくる。男性、女性、赤ん坊、鳥、大地、ドラゴン。


「待って! 待ってよテーゼ! フィオさん! 行かないで! まだ話してないっ、まだなにもちゃんと話せてない……っ!」


 崩れ折れる祖母と母の横から、ミミが飛び出した。水しぶきを上げて駆ける彼女に、ランティスもつづく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る