206 禁足の森②

 前方の島にドラゴンの姿はない。葉をつけた古木が横たわっているだけだ。

 途中から水深が深くなった。足を取られてフィオはよろめく。ふくらはぎまで上がってきた水面は、島に着く頃腰までの高さになっていた。


「なんだろう、不思議な感じ。ここだけほのかに、あたたかい……?」


 島に手をついた瞬間、頬をなでた風は春の陽気を帯びていた。フィオは島に上がり、目を閉じてテーゼの気配を探る。

 そして迷いなく横たわる古木を見つめた。


「テーゼ?」


 ザアと枝葉が揺れる。風も吹いていないのになびくそれが、翼の形をしていると思った。

 その時、古木の肌がやわらかくしなり、地面からわずかに持ち上がる。パラパラと苔の欠片を落としたのは、根ではなくしっぽだ。

 流水のように美しい曲線を描く枝が揺れ、その袂でつぼみのような目が開く。たゆたう清水の青と、芽ぐむ緑が交わる、たおやかな瞳だった。


『見苦しい姿のままですみません。私にはもう自分を支える力すらないのです』

「気にしないで。楽にして」

『フィオ。もう少し近くへ来てくれませんか?』


 うなずいて、フィオは歩み寄る。テーゼの背には葉っぱがついた翼に対して、もうひとつ枝が生えていた。

 しかしそちらに葉は一枚もなく、白く枯れている。途中で折れてしまっているが、かえってそれが彼女の神秘性を引き立てていた。

 顔の前に立ったフィオを、テーゼはじっと見つめている。


『久しぶりですね、フィオ。また会えてうれしいです』

「えっと。会うのははじめてだと思うけど……」

『そうですね。それはずっと昔のことで、これから起こることですから』


 わけがわからずフィオは首をひねる。するとテーゼは鈴の転がるような声で笑った。

 彼女から流れる澄んだ陽気は心地よく、いつまでも話していたいと思わせる。しかしフィオは気持ちが急いた。


「ねえ、テーゼ。悲劇を食い止められるって言ったでしょう。それはシャルルを正気に戻せるってことなの?」

『はい。ドラゴンの暴走は止められます。そしてうまくいけば、あの若者の命も救えるはずです』


 フィオは目を大きく見開いた。


「え……。待って。若者って、キースのこと? なんで、そんな、まさか。だってキースは……キースは……」

『フィオ、落ち着いてください。こちらに座って』


 コツンとかかとに当たるものがあった。それはテーゼのしっぽだった。

 苔に覆われた丸太のしっぽに、フィオは引き寄せられるように腰を下ろす。座ってから、足や背中にじわりと疲労を感じた。


『ドラゴンの暴走の原因。それは現代ではなく、過去にあります。千年前の人竜戦争時代。そこでかつてないほどの規模で、人とドラゴンが衝突しようとしています。その影響が、現代のドラゴンたちを狂わせているのです。戦争が起きてしまえば、もうあと戻りはできません。人とドラゴンは永遠に敵対することになります』

「過去……千年前? 人竜戦争って、世界各地の部族長が集まったところに、ドラゴンの大群が押し寄せてきたっていう、あの?」

『はい。その記録は人間側の視点ですが。私がこの目で見た戦争は、寸前のところで阻止されました』


 テーゼの言葉にフィオは声を失う。この目で見た、ということは彼女は少なくとも、千年間生きているということだ。

 一般的なドラゴンの寿命は百歳前後。ロワ種はその二倍とも三倍とも言われていたが、想像を超えている。


『しかし今や、その過去が変わりつつあるのです。フィオ、あなたがいないから』

「わたし……? でも歴史上は、各部族長が収めたって……」

『いいえ。あなたなしに争いが止まることはありませんでした。あなたが、それまで誰も想像しなかった人とドラゴンの絆を生み出したのです。フィオ、もう一度過去へ渡り、戦争を止めてください』

「過去へ渡るって、そんなことが可能なの……?」

『人は私をアンティーコトラヴァー時の旅人と呼びますね。私が長命であることから、そう名づけたのでしょう。ですが、この名は伊達ではありません。私には時渡りの力があります。あなたを千年前に連れていくことができる』

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