202 明けない夜①

「キースウウウウッ!」


 まるでおもちゃのように水面を転がり、四肢を投げ出して止まったキースに、ヴィオラが駆けていく。フィオも追いかけようとした。しかし首元から大量の血が流れ出るのを感じ、体が震えはじめる。


「……い……う……」


 舌も動かない。血濡れのハンカチから手が離れる。

 フィオに向かってくるシャルルを、ジェネラスが空から押し潰した。兄に似て冷静なドラゴンから、ひりついた咆哮が上がる。

 かつては、しっぽを追いかけ合って遊んでいた二頭が、互いの首を狙って牙を振る。その姿を最後に、フィオの視界は暗転した。

 どこか遠くで一頭のドラゴンが、物悲しく鳴いている。




『起きてください、フィオ』

『私のところまで来てください。お願いです』

『希望はまだ残されています……!』




 誰かに耳元で叫ばれ、フィオはビクリと目を覚ました。白い天井を照らす、窓いっぱいの日差しに顔をしかめる。

 意識がはっきりしてくるにつれ、首から肩にかけて鈍痛がズキズキと脈打ちはじめた。


「シャルル……。あれは、悪夢じゃないんだ……」

「フィオさん! 気がついたんですね……!」


 声がしたほうへ、振り向くことさえ億劫おっくうだ。そこにはミミがいた。ベッド脇に立ち、身を乗り出して覗き込んでくる。栗色の目には涙の膜が張っていた。

 どうやらここは病院らしい。薬品を混ぜたような独特のにおいがする。

 手足にも違和感があったが、首元の傷に比べれば取るに足らない。とりあえず四肢を動かせることを確かめて、フィオは息をついた。


「えっと。ミミちゃんは確か、あの場にいたよね」


 最初に聞こえた女性の悲鳴、今思えばあれはミミの声だった。


「はい。尋常ではないドラゴンの咆哮が聞こえたので、追いかけたんです」

「そっか。あなたが病院に運んでくれたんだ。ありが――あれ、他にも誰か……」


 お前は本当に世話の焼ける妹だ。

 小さく笑ったキースの顔が浮かび、フィオはベッドから飛び起きた。とたん、首と背中に激痛が走り、患部を押さえて息を噛む。


「フィオさんっ、急に動いたらダメですよう……!」

「キース、キースがいたでしょ。ヴィオラとジェネラスも。彼らは無事!?」


 ベッドに戻そうとするミミの腕を掴んで、問い詰める。すると彼女の表情が暗く沈んだ。

 目をさ迷わせて、誤魔化す言葉を探している。そう直感したフィオは、ミミを押しのけた。

 スリッパには目もくれず、裸足で立ち上がる。フィオの服は、布を巻いてひもで結んだ病衣に替わっていた。

 急に動いたせいか視界がぼやけて、頭がひどく重だるい。よろめいた体をミミに支えられた。彼女は無理だとか、ダメだとか言ったが、強引に歩き出して扉を開ける。


「フィオさん。そんな体で歩いたらダメだよ」


 廊下に出ると、竜騎士の団服を着たランティスがいた。フィオを見て表情をゆるめたのも束の間、やんわりと咎めてくる。

 彼のかたわらには、長イスに座るヴィオラの姿もあった。

 だが、どうも様子がおかしい。ヴィオラは両手で顔を覆い、深く項垂れていた。まさかシャルルに傷つけられたのか。フィオの心は恐怖で凍りつく。

 おずおずと手を伸ばした時、ヴィオラのひざで丸くなっていたデイジーが、牙を剥いて威嚇してきた。


「ヴィオラ? だいじょうぶ……? どこか痛むの? それとも気分が」


 近づくのは諦め、フィオはそろりと声をかける。するとヴィオラの肩が揺れ、弾かれるように顔を上げた。赤茶色の髪から現れた顔は、驚いているようにも呆けているようにも見える。

 次第に、ヴィオラの目に涙が浮かんできた。ミミと同じ反応。最初はそう思った。だがヴィオラは眉をキッとつり上げ、フィオに向かって掴みかかってくる。

 フィオともども、ヴィオラも廊下に倒れ込んだ。


「返して! 返してよ! なんでっ、なんであんたが全部持っていくのよ! 昔からいつもいつも! キースはこれから私を見てくれるはずだったのに……っ!」

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