201 シャルルの涙

 父はフィオが傷ついていると思い込んでいた。シャルルを怖がり、似合わないと言う人々に、フィオがなにも言い返さなかったからだろう。

 けれどフィオはただ驚いて、不思議がっていただけだ。


――どうしてみんな気づかないの? 青い目がよく見えるのも、クリスタルの角がキラキラ見えるのも、シャルルがまっくろだからだよ。


 首元からにじむ血に誘われて、牙がそこに押しあてられる。


「きれいだね、シャルル。ひと目見た時から、私は、あなたの黒を美しいと思っていた……」

「フィオさんっ!」


 誰か女性の声に呼ばれたその瞬間、肌を突き破って牙が肉を裂いた。


「フィオさっ、いやああああっ!」


 生あたたかいものが首から肩へ流れる。牙が食い込むごとに、ビリビリとしびれにも似た激痛が脳髄のうずいへ駆け上がった。

 血の気とともに薄まっていく意識の中、フィオは震える手でシャルルの顔に触れる。鼻筋、口、目元。なぞれば、見えなくても表情がわかる。


「だい、じょうぶ。わたし、は、なにがあっても……シャルルを、はなさ、ないから……」


 最後にシャルルの大好きな角の生え際をなでようとして、けれど届かなくて、手がずるずると落ちていく。

 ポタリ。

 その時また、水滴がフィオの頬に降ってきた。ポタリ、ポタリ。つづけて落ちてくるそれは、だ液よりもさらさらと流れていく。

 かすむ目を凝らして見ると、シャルルの青い目は涙に溺れていた。

 とたんフィオの目にも、熱いものが込み上げてくる。しかしそれが最後の力だったかのように、意識が暗んだ。あと一歩でシャルルは正気に戻る。心は叫ぶのに、体はどんどん冷たく沈んでいく。


「フィオオオオッ!」


 その時、白銀の疾風はやてが夜空から吹き下ろした。シャルルは弾かれるように飛びのき、翼と牙で乱入者を威嚇する。

 対峙するのは、鋼鉄の翼と皮ふを持った豪盾ごうじゅんシュタール・イージスだ。


「ジェネラス! シャルルを押さえろ! ヴィオラは離れてろ!」

「キー、ス……?」


 ドラゴンの背から降りてきた兄の姿に、フィオは自分の目を疑う。だがハンカチで首を押さえられた痛みは本物だ。

 キースはフィオの手を取り、有無を言わせない力で傷口を圧迫するよううながす。


「まったく! お前は本当に世話の焼ける妹だ……!」

「そっちが勝手に、世話してる、でしょ……」


 憎まれ口を叩くと、キースはかすかに笑ったようだった。フィオのひざ裏と背中を支え、その場を離れようと力を込める。

 しかし次の瞬間、けたたましい水音が響いた。見るとジェネラスが横倒しにされ、腹を脚で押さえつけられている。激しく暴れる相手の首に、シャルルはためらいなく食らいついた。


「ジェネラス! くそっ!」


 手にしたライフルを構え、キースは発砲した。弾丸はシャルルの翼に阻まれ、パッと粉塵ふんじんが散る。鎮静弾だ。シャルルがそちらに気を取られた隙に、ジェネラスは尾で振り払う。

 牙が首から外れ、シャルルはよろめきながら空へ退く。それを目で追うジェネラスの首に、血は見受けられなかった。銀翼を広げ、水面を波打たせながらすぐに飛び立つ。

 ジェネラスの突進は、軽やかにかわされた。宙返りしたシャルルの頭が、ひたと地上を指してフィオは息を呑む。


「キース、にげて……!」


 狩人の本能だ。一番弱った獲物を執拗しつように狙ってくる。

 キースを自分から遠ざけようと、フィオは手を伸ばした。だが指先は空を掻き、キースは裾をひるがえしてシャルルに立ち向かっていく。

 フィオから見えたのは兄の背中。そして頭上で瞬く星空だけだった。


「シャルル。こいつはお前の大好きな姉ちゃんだぞ。忘れたわけじゃないんだろ」


 銃声が響く。硝煙のにおいが秋風に乗る。

 しかしシャルルは止まらない。掲げた前脚が、高くしなる刃のようなうなりを上げて振り抜かれる。直後、キースの体はなぎ払われた。

 やけにはっきりと届いた鈍い音に、フィオは目を見開く。

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