第7章 それは遥か昔のこと そしてこれから起こる未来
187 お屋敷の朝①
ひとりの女性が泣いていた。みつあみに結った金の髪はほつれ、その向こう側で涙がはらはらとこぼれていく。
フィオさん?
ジョットはおずおずと声をかけた。けれどそれは音として響かない。ただ彼女の押し殺した吐息だけが震えている。
泣かないで。俺がいますから。
そこでジョットはフィオの隣に男がいると気づいた。顔は見えないが大人で、フィオの肩を抱き支えている。
そうか。ふたりの旅は終わった。
彼女の横にジョットの場所は、もうない。
にわかに罪悪感が込み上げる。最後だったのに、大事なレースを自分が台無しにしてしまった。謝りたくて、せめて思い出す時は笑顔でいて欲しくて、手を伸ばす。
振り向いたフィオの頬に、涙が伝っていた。ジョットは唇を寄せてやさしく舐め取った。あとから絶え間なくこぼれてくる雫も全部、受けとめて拭って、臆病な舌であたためる。
泣かないで。
泣かないで。
きみが泣いていると、わたしも悲しい。
離れていても、心はずっといっしょだから。
「ん……なんだ。つめたい……?」
耳の違和感でジョットは目覚めた。触ってみると指先が濡れる。
「泣いてたのか、おれ」
上等な
頭の片隅から急かしてくるものがある。そちらに意識を向けると、夢で見たフィオの姿がまざまざとよみがえってきた。
「フィオさん!」
ジョットはなめらかな上かけを蹴って飛び起きる。待ち構えていたスリッパは無視して、昨日リヴァイアンドロス家に運ばれた荷物から、くたびれたブーツに足を突っ込んだ。
下肢の夜着はそのままに、上着だけ手早く着替える。
鏡台に飛びついて、乱れた髪を整えながら色とりどりのヘアピンを手に取った。瞬間、フィオの声が脳裏で響く。
――思いだけじゃどうにもならないことだってある!
フィオからもらったヘアピンは至るところが剥げて、あの頃の鮮やかさはない。
「俺には、足りないんだ。あの人の不安や心配を晴らしてあげられるだけの、ものが……」
その時を見計らっていたかのように、扉がノックされた。次いで執事の声が、朝食の支度ができたと告げる。この部屋は返事をするのも
「ジョット、今日は忙しいわよ。まず午前中に全身の採寸を測るわ。それから夜着、稽古着、仕事着、夜会服、ああ舞踏会の衣装も! デザインと色を決めてちょうだい」
「仕事着ってなんだ。それに全部、前に作ったのがあるだろ」
「前っていつのこと!? そんなの古いわ。仕事着はもちろん、お父様のホテルとカジノのあいさつ回りに着る服よ。そろそろ仕事関係者とも面識を持って欲しいんですって。それと午後は」
「マナー講習とダンス稽古だろ」
パンをちぎりながら、ジョットはピュエルに投げやりに言った。
白くてふわふわとやわらかいパンだった。給仕が持ってきた時はまだ湯気が立ち、芳ばしいにおいがした。
カビが生えていないか心配する必要はない。硬くなったパンは上あごを刺してくるなんて、この屋敷の者は知らない。
白いパンに不満なんてないのに、ヒュゼッペの風車小屋で食べた硬いパンばかりを思い出す。
「それもだけど、今日はピアノの先生もお招きしているの。わたしヴァイオリンが弾けるでしょ? ジョットがピアノを習えば、デュエットできて素敵だと思って!」
「ピュエルの趣味につき合うなら、俺の趣味にもつき合ってくれていいよな。俺はドラゴンレースがしたい」
「ダメよ! レースは危ないもの。ドラゴンに乗りたいなら、遊覧飛行くらいにしてちょうだい。心配しなくても、ジョットに相応しいドラゴンを用意させるわ。そうね、やっぱりわたしのエクセレと同じ自然科がいいかしら」
朝日注ぐ窓辺に、ランセ・アクアティカは優美な青い体躯を横たえていた。ジョットの視線に気づいて、長いしっぽをひとつ振る。
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