186 あふれる想い②

 ジョットがどこにいるか、ひと目でわかった。みんながそっぽを向く中、たったひとりジョットだけがまっすぐフィオを見ていた。瞬きもせず、息をつかせる隙も与えない、強い眼差しだった。

 フィオの体は震えた。こんな醜態しゅうたいをさらしても、幾度となく突き放しても、フィオを求める執着に甘美を覚える。

 そんな自分が救いようもなく、浅ましかった。


「おいおい、フィーオー? 今頃ご到着かよ、遅かったなあ。得意の射撃も不発じゃ、お前も大したことねえな。落ちかけてるとこにペナルティ撃ってもよかったが、それは最終レースに取っておいてやるぜ。おっと、お前はまだ二勝してないんだっけ?」


 フィオはハンドルを引いた。しかしシャルルは戸惑いの声を上げて渋る。もう一度ハンドルをグイと引いてうながすと、相棒は惜しみながらジョットに背を向けた。

 そのままフィオは競技場コロセウムを出ていく。


「あ? 無視すんなよ、おい!」


 頭の中で次のレース開催地、ベルフォーレ特保とくほ国までの行程を描く。ああでもその前に、荷物を取りにいかなければならない。応援してくれたコリンズ夫妻を思うと、心はまたひとつ重く沈む。


「フィオ待てよ! そんな疲れきったシャルルに乗ってどこ行く気だ! 今度こそ墜落するぞ!」


 すぐに海岸が見えてくる。時折強い風に揺られながらふらふらと、フィオはシャルルを海へ進めた。

 白い砂浜をなでる波は透き通り、淡い緑青ろくしょう色にきらめく。広大な青は徐々に濃く深まり、水平線で空と交わり合っていた。

 レース中は目に映らなかった美しさに、フィオは見惚れる。

 どんなに高級な絵の具にも、どんなに高名な画家にも表現できない青の世界。それは、フィオがすべてを懸けて愛した世界だ。なのに今は際限のない寂しさが押し寄せてくる。


「ギョロメ、シャルルを止めろ!」


 突然、ドラゴンが青を遮った。シャルルが止まった反動でフィオはよろめき、上体が崩れる。その肩を誰かが支えてくれた。


「よしシャルル、そのままゆっくり下りろ。もうがんばらなくていい。そうだ、うまいぞ」


 不思議と思ってフィオは顔を上げる。そこには、今頃記者やファンに囲まれているはずのジンがいた。ジンは砂浜に下りたシャルルを見つめたまま、フィオの頭を叩く。


「不様な姿さらすんじゃねえって言っただろうが。なんだあのレース、お前らしくもない。負けてもうれしそうだったまぬけ面はどうした。お陰でな、こっちは少しも勝った気がしねえんだよ」


 ジンはそう言いながら、フィオの頭をこねくり回す。叩いた時と同じ、痛みのない力加減だった。そのやさしさが、言外げんがいにフィオをいつも見ていたと伝える声が、手のぬくもりといっしょに心に染み込んでくる。

 気づけばフィオは、ジンの胸にしがみついていた。堪える間もなく涙があふれ、震えるばかりの唇は役に立たず、嗚咽が抑えられない。


「い、いっしょに、いたかった……っ。わたしだってほんとうは……! でもこわ、くてっ、言えなかっ……」


 爪先が白く色を変えるほどきつく拳を握り、足の患部を叩きつける。


「もう! わたしは! いっしょに歩けない! ジョットくんの荷物にしかならないんだよ……! だからっ、だから……」


 痛めつける手を掴まれたとたん、体から力が抜けていった。泣き崩れるフィオを抱きとめて、ジンはゆっくりとひざを折る。


「わたしを、おいていかないで……」

「ばかやろう。俺に言ってんじゃねえよ」


 こぼれた心音は波にさらわれ、歓声の渦の中、ピュエルに抱きつかれたジョットまで届くことはなかった。

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