177 世界でたったふたりの

「キース……」

「お前みたいに、自由な心のままいられればよかったんだ。だけど正解を選んでいるうちに、俺の中には、兄としての責任と愛情が生まれた。守ってやらなきゃと思った。俺の、男としての劣情からも……!」


 キースの手が再びワンピースのひもに伸びた。思わず強張るフィオに「ごめん」とつぶやいて、キースはひもを結び直しはじめる。

 その手つきはまるで壊れものを扱うように臆病で、赤紫色の目は迷子のようだった。


「俺に、お前をどうこうすることなんてできない。たとえ合意の上でも、辱しめたり泣かせたりするなんて、想像しただけではらわたが煮え返る。フィオは俺にとって……神聖な存在なんだ」


 妹マドレーヌを、絶対不可侵の存在と言ったランティスの言葉が重なる。

 衣服を整え終えて、フィオはキースに抱え起こされた。彼はもう一度謝って、背中についた砂をていねいに払ってくれる。

 その横顔は判決を待つ罪人そのものだ。これまで過ごしてきた家族の時間が、両親の期待が、キースの心を炙りつづけている。それは歪み、色を変え、もうただの幼なじみにはけして戻らない。


「キース、ごめんなさい。私、自分のことばかりで、あなたがそんな風に苦しんでいるなんて想像もしなかった……。考えが足りなかった……」

「いや。悪いことばかりじゃない」


 フィオと目が合ったキースは、困ったように笑う。遠慮がちに伸ばされた手が、そっと目元を拭った。その時フィオははじめて、涙が込み上げていたことに気づき、火照る頬を押さえる。

 キースはまた謝った。


「恋人や夫婦は、行き違ってもう二度と会わなくなることもある。だけど家族――兄妹なら、どんなにケンカしたって兄は兄だろ。それだけでお前に会いに行く理由になる」


 そこまで言ってキースは、迷うように目を泳がせた。額に手をやり、うつむいて、フィオから表情を隠す。


「こんな、兄バカこじらせたやつじゃ嫌かもしれないが……。フィオをもう、ひとりぼっちにさせたくないんだ。いつだって、兄ちゃんがいてやる」


 フィオは目をまるく見開き、義兄あにの不恰好な笑みを見つめた。

 兄と妹に引き裂かれたわけじゃない。キースは無条件に、フィオを愛してくれるカタチを取った。それは想像していたものとは違うけれど、いったい、夫婦とどれほどの差があるだろう。

 鍵と錠がカチリと合わさるように、フィオの心はほどけ光が差し込む。

 いいんだ。

 私はキースを愛したままでいい。

 会いたいと思えば会いに行ってもいい。

 突然放り込まれたしがらみは、よくよく見れば誰よりも近く、誰にも侵すことのできない、世界でふたりだけの鎖で紡いだ、絆だ。


「嫌なんかじゃないよ」


 愛しさが抑えきれない瞳をほころばせ、フィオは涙を拭ったキースの手を包む。


「さっきの涙は、うれし涙だから」

「おっま。これ以上俺をこじれさせるな」


 すねたようなキースの声に、フィオは遠慮なく笑った。いつでも完璧ぶっているキースを、はじめてかわいいと思う。

 想像していた恋人の姿とは真逆だ。だけどこれも悪くない。


「この際だ。兄として言わせてもらう。ゴールドラッシュには近づくな。あいつは女なら見境ないやつだ」

「え。そんな風に見てたの? 私たちはライバルだよ。お互いにあり得ないって思ってるよ」

「あとランティスもダメだ。ああいうのは意外とむっつりで、束縛が激しい」

「なんかジョットくんも似たようなこと言ってたような……」

「ジョットは、お前が襲わないか心配だ。手を出すなら二年後にしろよ。性犯罪者の兄貴なんてごめんだからな」

「出すかっ! むしろこっちがヒヤヒヤさせられてるわ! というか、妹の首舐めてきた人に言われたくないんですけど」

「あ、あれはお前が先に仕かけてきたんだろ! 似合わない格好したり、抱きついてきたりっ」

「へー。しっかり煽られてたんですなあ。もしかして、リボンほどくのも興奮しちゃった?」

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