174 乙女の覚悟②

「……いや、帰ってきたら声かけなさい。どんなに遅くなってもいいから。スープを温めてあげる」


 もう一度遠慮する強さを持てないフィオに、ペギーはそっと触れた。水仕事で乾燥して、少しざらついたぬくもりが、頬を包む。その手は、なにもかも忘れてずっとこうしていたいと思うほど、心地よかった。


「ねえ、ペギー」


 口にしかけた問いは、どうあがいても独り善がりでしかなくて、自分の中で押さえ込む。代わりにフィオは胸を張り、スカートの端をつまんで笑顔を振りまいた。


「今の私、お嬢様みたいでしょ?」

「パーティじゃきっと、誰も放っておかないだろうね」


 いたずらが成功した少女のように、ペギーとくすくす笑い合って見送ってもらう。

 ビッケスの相棒、自然科ロカ・タルタルーガのトロフォスとじゃれていたシャルルが、すぐに駆け寄ってきた。背中にはハーネスをつけたままだったが、乗らずに歩いていく。

 シャルルも珍しい散歩を跳ねるように歩いて、楽しんでいた。

 やって来たのは〈夕凪亭〉の目と鼻の先にある砂浜だ。防風林を抜ければ、西の水平線を金色に染める夕陽が現れる。恋人や夫婦が寄り添い、二度と戻らない時を惜しむように見つめていた。

 そんな感傷とは無縁の子どもたちとドラゴンが、水と戯れている。無垢な声を聞きながら、フィオはしばらく夕陽に向かって歩いた。


「ジョットくんの気配、落ち着いた。夕食がはじまったみたい」


 相手の意識が逸れているから交信はできないが、ジョットの気配は感じ取れる。レヴィ島のほうで絶えずそわそわしていた動きが止まり、食卓に着いたらしかった。


「これってどこまで離れればわからなくなるのかな? 星の裏側にいてもわかったら嫌だよね?」


 レヴィ島の裏側と言えば、ルーメン古国のポートリオあたりかな。

 思いつくままにつぶやくフィオに、シャルルは首をかしげっ放しだ。その仕草は人間の話を理解しようとする知性の表れで、ドラゴンがいかに優れた種族かを物語っている。

 しかし優秀な友人は、早々に考えることに飽きて、フィオの顔をべろべろ舐めはじめた。


「うわっ、ぷ! わかった、わかったからシャルル! そうだ、抱っこしよう。ほら抱っこー」


 舐めたりない、と伸びてくる首をかわし、フィオはサッと懐に入り込む。ハーネス越しにぎゅうと抱き締めた。するとシャルルも大人しくなって前脚でフィオを掴み、さらに翼ですっぽりと包み込む。

 教えたわけでもないのに、幼体の頃から取っていた行動だ。シャルルを抱っこするとフィオはいつも、甘えられるばかりではなく、甘やかされている気持ちになる。


「私は、ひとりじゃない。どんな時もシャルルがいる」


 返事をするようにシャルルが鳴く。その声に重なって、聞き覚えのあるドラゴンの声が近づいてくる。


「だから、だいじょうぶ」


 そばで羽音が弾け、待ち人の声がした。


「シャルル。お前の姉はどこに行ったんだ? 人を呼び出しておいて」

「ここにいるよ、キース」


 フィオが身を起こすと、シャルルは翼の抱擁ほうようを解いた。怪訝にひそめられていたキースの目が、フィオから服に移ってまるく見開かれる。

 レースライダーである以前に、家族として育ってきたキースの前で、着飾ることはほとんどなかった。今フィオはピッピやヴィオラに嫉妬して、ただキースのためだけに、女の自分をさらけ出している。

 とたんに心細くなって、フィオは胸元の服を握った。


「来てくれてありがとう」

「な、なに改まってるんだ。別に、近くに泊まってたし、お前が話があるって言うから……」


 キースは珍しく歯切れが悪かった。視線を逸らして、海を見やる。そのことにフィオは少し緊張をやわらげ、用意していた二本のリボンを掲げた。


「話の前に、チョウチョ取りやらない?」

「チョウチョ取りって、腰に結んだリボンを取り合う追いかけっこか?」

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