169 我が子のためなら

 そう言いながらペギーは壁に背を張りつけて、あとずさっていく。そうだそうだ、とビッケスも乗ってきた。


「自分から女性の腕掴んで振り向かせるなんて、見たことない! あれは俺もドキドキしたさ。ジョット、男になったなあ」

「それだけフィオちゃんは特別なんだよ?」


 そっとフィオの手を取り、見上げてくるペギーに、フィオはあいまいに微笑む。


――フィオさんはやっぱり俺の特別な人なんですよ!


 フィオの姿形を確かめるように触れ、はしゃいでいたその言葉の重みを、今ようやく感じた。けれどもう遅い。知ったところで、障壁が崩れることもない。


「ペギー……。私の足のことは、新聞で知ってるよね? これは治らないの。私はジョットくんの重荷になるだけ。それに」


 これはあまり言いたくないことだったが、無視もできない。フィオは言葉を選んでつづける。


「リヴァイアンドロス家の話を断ると、いろいろやりづらくなるでしょ……?」


 ペギーはうつむき、ビッケスはうなった。

 シャンディ諸島国は五人の島主しまぬしによって治められている。その中でリヴァイアンドロス家は、本島という最も重要な島を仕切る、島主の中心人物だ。

 その影響力は、ヒュゼッペ国の国王に並ぶと言っても過言ではない。

 結婚は当人たちの問題、とは言っていられない相手だ。ほんの小さな火種でもどこへ飛び火し、どこまで延焼するか、フィオには想像もつかなかった。


「そうね。ジョットもそう思って、婚約を断りきれなかったんだと思う。私たちも最初は喜んでた。あの子が幸せを見つけたんだと思って……」


 ペギーの声には、やりきれなさがにじんでいた。額に手をやる妻の肩を、ビッケスがやさしく抱く。


「でもそれは間違いだった。今ならはっきりわかる。あいつは救いようのないフィオちゃんバカだ。フィオちゃんのこととなると、賢いことなんか考えられないんだよ。ペギーのストーカーと呼ばれた俺のようにな!」

「嵐がサンゴ礁を育むようにね、苦労の中にもある小さな喜びを見つめてる。あの子は、それをフィオちゃんと分かち合えたら十分なのよ」


 夫妻の眼差しがあまりにも深く、やさしくて、フィオは思わず尋ねたくなった。しかしこんな質問に意味はあるのかと、唇を噛んで惑う。


「その……」


 それでも堪えきれなかったのは、夫妻の目にあの日溶けて消えた愛を見たからだ。


「その嵐が、あなたたちの築き上げた船を転覆させても、ですか……?」

「ああ!」


 間髪入れず答えたのはビッケスだ。


「子どもが幸せなら、俺たちはどうなったっていいんだ。苦労も楽しい!」

「そうよ。それにきっとその嵐は、海も空も洗い流して素晴らしい景色を見せてくれるわ!」


 夫に寄り添ったペギーがはしゃいだ声を上げる。少女のように輝く黒い瞳で、フィオに微笑みかけた。


「ね、そうでしょ。フィオちゃん」


 込み上げてくるものを抑えるのに精一杯で、フィオはうなずくこともできなかった。




「わあっ、ほんとだ! 真後ろより斜め後ろのほうが飛びやすいってヴィゴーレ喜んでる! 教えてくれてありがとう、フィオさん!」


 シャルルの背後で無邪気に感動するロードスターに、フィオは苦笑する。

 翌日、フィオはピュエルの許しを得たジョットを連れて、レヴィ島へやって来た。中心街から離れた海岸沿いの競技場コロセウムで、参加登録を済ませてそのまま練習に入る。

 そこへ現れたのがハーディとザミル。そして彼らの相棒ドラゴン、ヴィゴーレとヘクトだ。相変わらずマイペースなハーディに誘われて、今日は合同練習となった。


「真後ろで風避けするのも悪くないけどね。斜め後ろのほうが、相手が起こす上昇気流に乗りやすいよ」


 この状況は敵に塩を送ることになるが、フィオにも得はあった。

 次のシャンディレースは長距離コースだ。これまでのように先頭に立つことが、必ずしも有利だとは限らない。いかに体力を温存し、どこで勝負に出るか。ライバルたちの動きを読み、駆け引きに優れた者が勝利を掴む。

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