142 ナビの不調

「でも、ランティスさんにはマドレーヌとの約束があります。マドレーヌが悲しみますよ」


 ランティスは「ありがとう」とおだやかに微笑む。ふと、遠くに向けた目にはハチミツのような甘い光が宿り、妹を思っているとすぐにわかった。


「マドレーヌとはもう話してきたんだ。『マドレーヌがいつかレースに出る時、僕がナビをやりたいから』と言ってね。ただしその代わり、勝ち進んで決勝レースを観戦させろ、と条件を出されてしまった」


 困った風に言いながらも、ランティスの顔はうれしそうだった。

 兄とは妹の期待に喜ぶものなのだろうか。セノーテのどこかにいるキースを思い出して、フィオは小さく笑う。


「なぜそこまでしてくれるんですか?」

「ウォーレスくんを守れなかった、せめてものお詫びをさせて欲しい。僕がもう少し早く着いていれば……警備の竜騎士の判断が遅れていなければ……。考えてもせんないことはわかっているが、どうかけじめをつけさせてくれ」


 フィオに向かって深々と頭を下げるランティスをはじめ、ヒルトップ家の人間はつくづく義理堅い。誠実な彼らに対しては遠慮するより、受け取ってしまったほうが喜ばれる。


「わかりました。よろしくお願いします。ただ、もうわかっていると思いますが、私はこのロードスター杯に全身全霊を懸けています。ナビといえど、半端な覚悟で臨まないでください」

「もちろんだ。ウォーレスくんには及ばないだろうが、この一週間寝る間も惜しんで勉強するよ」


 硬いランティスの表情は、まるで降伏条件として差し出された人質のようだった。フィオはあえて尊大に腕を組み、あごをクイと持ち上げてみせる。


「当然です。自慢じゃないですが、いくら竜騎士団分隊長殿でもうちのナビと肩並べるには、一週間そこらじゃ足りなくてよ」

「思いきり自慢していますが。フィオ嬢?」


 にやりと笑って相手が乗ってきたことを確信し、フィオは噴き出す。するとランティスも堪えきれないといった様子で表情を崩し、ふたりの笑い声が廊下に響き渡った。


「フィオさんは本当に、ウォーレスくんが好きなんだね」


 ひとしきり笑ったあと、ランティスが投下した言葉にフィオは面食らう。


「は? や、別に、ナビとして信頼してるだけであってっ」

「隠さなくてもいいじゃないか。僕にもマドレーヌがいるからわかるよ」

「あ、弟分としてってことね……」


 先日危うく唇を奪われかけたせいで、自分の認識が誤ったほうへ傾いているとフィオは自覚した。慌てて心に修正を入れる。ジョットは大事なナビで、いい弟分で、友だちだ。

 だがフィオはにわかに不安になる。

 弟分の色っぽい声に煽られるって、私おかしいんじゃないの?


「ランティスさん、ちょっとちょっと」


 フィオは使われていない客間のほうへ寄って、壁際にしゃがみ込んだ。律儀な分隊長は首をひねりつつも、いっしょになって大きな体をまるめる。フィオはこそりと声を潜めた。


「マドレーヌの、たとえば着替えるところとか見たことあります?」

「ああ。まだ入浴をせがまれるんだ。任務でなかなか構ってやれないからね。寂しい思いをさせてると思う」

「その時に、ドキッとすることは」

「そうだね。久しぶりに会うと身長が伸びたりしてて――」

「あ、そっちじゃなくて。あっち系です」

「アッチケイ……?」


 ランティスは知らない言語でも聞いたように固まった。まるまった青い目の前で、フィオは立てた小指を振ってみせる。

 考え込むこと数秒。ランティスは突然大きく仰け反り、ドシンッと尻もちをついた。


「き、きみはなにを言い出すんだ!?」

「シーッ! 声が大きいですってば。落ち着いてください。あくまで一般的感覚を聞きたいだけです。別にランティスさんの目がいやらしかったとかじゃないですから」

「当然だろ! あり得ない! そんなこと考えるだけでっ、どうかしている!」

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