140 あの夜のつづきを②

 そうして自分から近づくのではなく、フィオを引き寄せたがる仕草に心がゾクリと震える。鼻先が触れそうな距離で見つめ合うのは、あの夜以来だった。

 優美な旋律がせつな、寄せては返す。


「あの夜のつづきをしませんか」


 その言葉に、ジョットの目にも着飾ったフィオが映っていると知った。

 だがどんなに求められても、惹かれる瞬間があっても、フィオの答えはとうに決まっている。


「しない。できないよ。言ったでしょ? 〈未成年保護法〉っていう国際法があって――」

「そんなものは抜きにして。フィオさんの気持ちを聞かせてください」


 フィオは眉をひそめた。マドレーヌのように、少年少女が犯罪に巻き込まれないための法だ。けして、バレなければいいなどと、軽視していい代物ではない。

 なによりフィオには、幼なじみにさえ嫉妬する相手がいる。


「悪いけど、法律がなくたってジョットくんの気持ちには応えられないよ。私には、好きな人がいるの」

「キースですよね」


 目を剥いて、フィオは言葉を失った。

 いつ、どこで、わかった? 頭は疑問で埋め尽くされるが、困惑してひとつも答えに結びつかない。確かにキースの前ではあからさまな態度に出ていたが、ジョットの目があるところではひかえていたはずだ。

 ふと、ジョットの親指が頬をなでる。見れば彼はおだやかな目をしていた。


「だいじょうぶですよ。他の人にはたぶん、仲のいい義兄妹くらいにしか見えてませんから。俺には、わかっちゃうんですけど……」

「なんで、どうして」

「ずっとフィオさんを見て、フィオさんのこと考えてるから。って言うのはちょっとキザ過ぎるかな」


 困ったように笑うジョットの真意はわからないが、はぐらかされたのは確かだった。逸らされた目を追って伸ばしたフィオの手は、逆に捕らえられて強く引かれる。


「わかりますか? 俺は知っててフィオさんに近づいた。あの人からあなたを奪いたいくらい、あなたが好きなんです」

「ジョッ――!」

「あいつより俺を見てください」


 フィオの制止を振りきって、ジョットの顔が近づく。ひたと見つめる金の目は、あの夜のつづきを求めて、脳をつんざくほどの執着を剥き出していた。

 それはひとりぼっちになったフィオの手から、こぼれ落ちたもの。からっぽのアイスコーンを埋める、甘い欲望の氷塊だ。

 父を呑み込んだ炎が残した火傷を、冷まして欲しかった。くすぶる火がヂリヂリと、からっぽのこころを焼き切る前に。

 のど奥から脳髄のうずいまで突き抜ける痛いほどの激情で、思い知らせて欲しい。

 私は愛されているんだ、と。

 片足を差し出してまで欲しかったものが、あと数センチで手に入る。そう思った瞬間、言い知れない恐怖がフィオの背筋を駆け抜けた。


「ダメ」


 フィオはとっさにジョットの口を押さえた。


「……俺じゃ、キースには勝てないんですか」

「あなたは冷静じゃない」

「どういう意味です」


 まっすぐ過ぎる視線をかわして、フィオは軽く肩をすくめてみせた。


「私には先がないんだ。このロードスター杯が終わる頃には、歩けなくなってる。レースどころか、寝たきりになるかもしれない」


 いい? とフィオはジョットの前に人さし指を立てる。


「あなたの憧れたレースライダー、フィオ・ベネットは見る影もなくなるんだ。そんな私といっしょになる意味を、現実を、あなたはわかってない」

「そんな、そんなことない! たとえ飛べなくなったってフィオさんは俺の憧れです! ドラゴンレースがあなたのすべてじゃない! あなたの声が、瞳が、手が、感情を伝えてくれてはじめて、俺の世界は色づくんですよ……!」


 心臓に直接、冷えたクリームを流し込まれたように肌があわ立った。手足の先からどんどん熱が逃げ出して、凍えたように震えはじめる。

 なのに心はポカポカとあたたかい。まるで冷気で活性化する褐色細胞のように、懐かしいぬくもりを帯びて目覚める。

 父と手を繋いで歩いた遠い日々の安堵が。

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