129 零れる無垢の血③

 荒い呼吸の合間から名前を呼ばれ、フィオは弾かれるように身を乗り出す。目に入りそうな汗をそっと拭うと、震えるまぶたが開いた。金の目がなにかを探すようにさ迷う。

 顔を寄せたフィオを見つけて、ひなた色の瞳はとろりと微笑んだ。


『よか、た……こんどはちゃんと、守れた』


 安堵の吐息を残し、ジョットは目を閉じる。それと同時に彼の四肢から力が抜け、地面にだらりと垂れ下がった。

 フィオは息を噛む。心臓を掴まれて血流が止まったかのように、全身が凍りついた。呼吸の仕方も忘れて、あえぐように肺を震わせる。目の前で起きていることを脳が拒絶し、なにも考えられない。

 そんなフィオを叩き起こしたのは、誘拐犯の悲鳴だった。


「ランティスお兄さま!」


 目を向けると、コレリックに跨がったランティスが、銃を持った誘拐犯を踏み潰していた。


「ゲミニ・カブト二頭とその男も確保しろ!」


 険しい声でランティスが指示を飛ばす。

 上空では警備にあたっていた竜騎士ふたりが、ゲミニ・カブトを追い回していた。ライフルを構え、脚や首を狙って撃ち込んでいる。竜騎士が初撃で使う弾と言えば麻酔弾だ。

 粉塵で目をやられた相棒を背負うドラゴンも、シャルルを捕まえようとしていたドラゴンも、徐々に翼の勢いが衰えていく。


「フィオさん! フィオさん! ……手荒だけど許してくれ」


 パシンッ。

 頬を張った痛みでフィオは我に返った。気づけば、苦しげな表情のランティスに見下ろされている。彼はフィオの手の上から、ジョットの傷口を強く圧迫していた。


「もっと強く押さえつづけるんだ。シャルルに乗って、きみがウォーレスくんを屋敷に運ぶ。いいね?」


 気を失いながらも苦悶の声をもらすジョットに、フィオは慌てて手を引こうとした。しかしランティスが許さない。フィオのあごを掴んで目を射抜き、声を張り上げる。


「しっかりしろフィオ・ベネット! ウォーレスくんを助けられるのはきみしかいない! きみがウォーレスくんを助けるんだ!」

「た、助けられる? ジョットくん、まだ……」

「生きてる。彼は死んでない。助けられる」


 うるさかった呼吸音が凪いでいく。代わりに澄んだ風のがやさしく耳をなでた。

 ここにいる。今行くよ。

 シャルルの思いが流れ込んできて、フィオの心臓をドクンと叩いた。その瞬間戻った感覚が真っ先に伝えてきたのは、ジョットの血のぬくもり。命のたぎりだ。


「ランティス隊長! ゲミニ・カブトが止まりません……!」


 竜騎士の切羽詰まった声に戦慄せんりつが走る。

 上空を見ると、シャルルを追っていたゲミニ・カブトが、竜騎士を振りきってこちらに接近していた。双頭はぐらつき、姿勢も定まらず蛇行している。

 体を巡る麻酔は効いているが、ドラゴンはそれを凌駕りょうがする衝動に駆り立てられていた。


「相棒を襲われ我を忘れたか。コレリック、押さえろ! フィオさんたちは遠くへ逃げるんだ!」


 ランティスの命令に応え、コレリックは翼腕を広げ尾を逆立て、三日月型の牙を剥いて威嚇する。

 するとゲミニ・カブトの双頭のひとつが、フィオを見た。殺意に染まった眼光で貫かれ、手足がすくむ。

 頭ではまずい反応をしたとわかっていた。弱者を狙え。それがドラゴンの狩猟の鉄則だ。

 しかし逃げろと訴える意思に反し、体が動かない。ゲミニ・カブトの片割れは、もうひとつの頭を呼んでフィオに矛先を変える。


「伏せろ!」


 ランティスが身を盾にして割り込む。有無を言わさずフィオとマドレーヌの頭を押さえつけた。薄闇の中、フィオはジョットの顔を見つめ傷口を圧迫しつづける。

 感じるシャルルの焦りが、心臓をドクドク叩く。マドレーヌの手が、フィオの服をぎゅうと握り締める。

 その時、発砲音が響いた。音のわずかな違いをフィオはすぐに聞き分ける。麻酔弾よりも低く大きな音だ。しかし鎮静弾にしては重々しい。


「やめろ……! やめてくれえええっ!」

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