105 ただの女の子に③

 そこへ、手を打ち鳴らす音が響く。案内係りの女性が、従業員たちを仕事へ戻るよううながした。「十分押してるわよ!」と尻を叩かれ、室内はまた慌ただしく動き出す。


「離れて欲しくない……でも、家族じゃ嫌なの……」


 ちぐはぐな心を抱えるフィオだけを残して。

 暗然とした顔が淡い頬紅で隠された時、後ろでさらさらと衣擦れの音がした。深いラベンダー色のドレスをまとったヴィオラだった。

 ふわふわのフリルも花もついていないドレスは、簡素に見える。けれど大胆に開いた胸元は肌の美しさを見せつけ、コルセット風の腰が締まったデザインと相まって、否応にも“女”を意識させる存在感があった。

 ヴィオラはすれ違い様、立ち止まる。


「フィオ。残念だけど、ライバルでしかないあなたがキースにしてあげられることは、なにもないわ」


 鏡から消えていく紫の影を、フィオは無言で見送った。どうして反論できようか。互いに背を向け、それぞれの道を歩むと決めたのは、他でもないフィオとキースだ。


「さあさ、お姫様。あとは目と唇を塗ったら終わりですわよ」


 客の不機嫌を察して、化粧師はひと際明るい声で取り繕う。その手には青系統の色を集めたパレットを持っていた。


「目元は青なんですか」

「ええ。装身具の石と合わせてみましたわ。他のお色もありますよ?」


 今は青の気分じゃない。青はキースの髪色だ。身にまとうのは気が重い。


「他に変えてもいいですか?」

「どうぞどうぞ。なんでもありますわよ」


 化粧師はバッグやポケットから小箱を取り出して、次々と台に並べていく。色とりどりのクリームを見ながら、フィオの脳裏に一瞬鮮烈な光が瞬く。


「黄色。黄色はありますか」

「珍しいお色ですわね。あ、もちろんありますわよ。それに……そう、ベネット様の髪色とお似合いですわ!」


 あまり使った形跡のないパレットから、化粧師は小さな筆で色を取った。まずは目頭から目尻にかけて、涙袋にコーラルオレンジを乗せていく。目尻に近づくにつれ濃くはっきりと、そして端から少しはみ出すまで筆を走らせた。

 次にまぶたには、プリンイエローを差す。こちらも濃淡を意識し、ていねいな筆先が肌をなでる。

 仕上げはパールイエローだ。全体にさりげなく、小さな星くずをちりばめていく。


「思った通り、お似合いですわ。ベネット様」

「本当に。まるでひまわりのように華やかです」


 最後に、コーラルピンクの口紅を差したフィオを、化粧師と髪結師は口々に褒めた。ひまわりを意識したわけではないが、年中飛び回っているライダーを、深窓の令嬢に仕立てあげた腕を称え、フィオは微笑みで応える。

 編み込みのハーフアップに結った髪を揺らしながら、いよいよドレスに着替えるため席を立った。


「あれ。ジョットくんいないな。待たせてると思ったのに」


 ドレスの裾を踏んづけないよう小股で歩きながらも、急いで戻った通路にジョットの姿はなかった。

 待たせ過ぎて先に行ってしまったのだろうか。フィオは甲板のほうをきょろきょろと見回す。


「これはこれは。姫というより女王様だな。フィオ・ベネット」


 後ろから声をかけられて振り向く。いやらしい笑みを浮かべたジン・ゴールドラッシュだった。彼もなんらかの催し物に出るのか、ホワイトゴールドのスーツを着て、髪をみつあみに整えている。

 ギョロメがいたのだから、ライダーも船に乗っていることはわかっていたが、ここで会うとはツイていない。フィオはサッときびすを返した。


「つれねえなあ。俺を傷モノにしてくれたくせによお」

「誰が。妙な言い方しないで。あんなの避けられないほうが悪、ひょわ!?」


 いきなり、オフショルダーの襟元から流れるレースマントを引っ張られた。よろけたフィオは、腰をがっちり掴んだ手に支えられる。


「まあた太ってんじゃねえか。腹が出てるぞ」

「う、うっさい! あなたには関係ないでしょ!」

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