104 ただの女の子に②
しかし化粧師は構うことなく、植物エキスの保水液をフィオの顔に塗りたくりはじめた。上下左右、しまいには円を描いてぐるぐると、パン生地よろしくこねくり回される。
えらいところに来てしまった。これならまだ、ライフルのバレルを磨いているほうがいい!
「こんばんは、フィオ。やっぱり来たのね」
「えっ。どちらさん?」
「ベネット様、動かないでくださいまし」
今度は頬を挟まれてガッチリ固定されたフィオは、振り返ることが叶わなかった。横目を精一杯隣席に向けると、よく知った顔が見える。
「ヴィオラ! ってことはキースも舞踏会に出るの!?」
「もちろんよ。彼が誘ってくれたんだもの。私と踊りたいって」
「うそ。踊れないのに?」
「え。踊れないの?」
「え?」
妙な沈黙がふたりの間に流れた。アイシャドウを塗っていたヴィオラの化粧師は、ヴィオラがぱちくりと瞬きするものだから、咎めるような咳払いをこぼしている。
「れ、練習したのよ。昼間」
「ふうん」
ようやく寄越された返事は、キースの性格を考えるとちょっとだけ怪しかった。
フィオと組んでいた彼だったら、ダンスを覚える暇があるんだったらライダーとドラゴンの情報を頭に叩き込め、と言っているところだろう。
それともヴィオラは違うの?
「それに、私のために一等個室も取ってくれたのよ。キースっていい人よね」
「一等!? 十万ペトもする一等!?」
「あら。フィオだってそうだったんじゃないの?」
過去、キースと〈バレイアファミリア〉に泊まった時のことがよみがえる。勇壮な大型客船を、キースはでっかいとまり木程度にしか考えていなくて、部屋は問答無用で大部屋だった。
そのくせ他人と接触するのが嫌なのか、フィオを抱き枕にして布団の真ん中で寝ていた。
せめて、憧れの二段ベッドがある中部屋でもよかったのに、そっちのほうが危ないとかなんとか言ってキースはケチった。
「ま、まあ一等にする必要はないからね。いつも二等個室だったよ。キースは別に一等でもよかったみたいだけど、私がいいって言ったの」
つい髪を触ってしまい、髪結師にひざに戻される。
ヴィオラは「そう」と言って席を立った。どうやら化粧と髪の仕度が終わったようだ。みつあみを団子状にまとめた幼なじみの姿が鏡に映り、後方の衝立の影に入っていく。
フィオはもっとよく見たかったが、パフを持った化粧師による顔面高速叩きがはじまって、目を閉じるしかなかった。
「ねえフィオ。あなたどうしてもレースやめないのね」
後ろからヴィオラに話しかけられる。フィオは暗闇に向かってきっぱり返した。
「やめない。これだけはなにを言われてもゆずらない」
「……わかったわ。私からはもう言わない。だけど、レースをつづけるってことは私たち敵同士よね」
細く目を開ける。白いペチコートをまとったヴィオラが、鏡越しにフィオを見つめていた。
「お互いのためにも、もう関わらないほうがいいと思うの」
「それは、そうだけど。でも……」
家族という繋がりに、未練を抱いている自分に気づいて、フィオは唇を噛む。その関係を誰よりも疎ましく思っているのはフィオだ。距離を置かれそうになった時だけ、都合よく持ち出すことなんてできない。
今の私とキースの関係ってなに?
倒すべき敵、古い友人、庇護対象。どれも理想とはほど遠い。ただの女の子に戻りたいだけだ。父が死ぬ前のあの頃に!
「正直ね、やりづらいのよ。特にキースは
「違う! 私はキースの義妹なんかじゃない!」
気づけばひじかけを叩きつけて叫んでいた。鏡台に置かれたビンや小箱が震え、ブラシが一本カタンッと落ちる。鏡に映る誰もがみんな、ぽかんとフィオを見ていた。
化粧室全体が異様な静けさに包まれる中、ヴィオラだけは納得した顔をしている。
「そう。あなたやっぱりキースのこと……」
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