103 ただの女の子に①

 ジョットは両手でフィオの手を掴み直し、そっと包んだ。子どもの高いぬくもりが、フィオの心までじんわり届く。


「疲れてるって言ってましたよね。フィオさんは今まで昼は働いて、夜に練習して、ずっとがんばってきたんですから、少しくらいレースを忘れても、バチは当たりませんよ。今夜は頭からっぽにして遊びませんか。俺と」


 踊れないことも、二人組の男のことも、足を使わないで済むいい口実だと思っていた。

 フィオが本当に恐れていることは、怪我の悪化だ。なにがきっかけでひどくなるのか、それはいつ起きるのか、心では怯え立ち竦んでいる。

 けれどジョットの目はどこまでも澄んでいた。そこに不安や恐怖はない。彼はフィオの可能性を疑わない。盲目的な信頼が、フィオに吹く唯一の風だ。

 その風に乗って私は、ファース村から飛び出してきたんだ。


「……わかった。今夜だけだよ」


 パッと咲いたジョットの満面の笑みが、フィオの心を照らす。彼のためなら、少しくらい無理をしてもいいと思えた。


「じゃあ俺も着替えてきますから。終わったらまたここで合流ですよ!」


 店の並びに設けられた化粧室へ、ジョットはいそいそと駆けていく。


「ウォーレスくんはいい子だね。僕は会場の隅で見守らせてもらうよ」

「すみません。ランティスさんまでつき合わせてしまって」

「気にしないで。コレリックをブラッシングしてくれたお礼だと思ってくれ」


 にこりと微笑んで、ランティスも人混みの中に入っていく。彼自身が言い出したことだが、ジョットを守ることが当然のような振る舞いに感心した。

 任務から離れても揺るがない姿勢をまねようと、フィオも背筋を伸ばして女性用化粧室に向かう。


「いらっしゃいませ! お名前を頂戴ちょうだいしてもよろしいですか?」


 入ってすぐ、壁にずらりと取りつけられた鏡の前に、隙間なく座っている女性たちの姿が飛び込んできた。彼女たちの周りでは、女性従業員がひとりに二人がかりで、化粧と髪結いを施していく。

 鏡の向かい側には衝立ついたてがあり、その裏でドレスを着つけているらしかった。


「えっと、フィオ・ベネットです」


 案内係りの女性は、腕に抱えた書類をめくる。しかし表情が次第に曇っていった。


「あ、もしかしたらジョット・ウォーレスで予約してるかもしれません」

「ジョット・ウォーレス様……ありましたわ! お待たせいたしました。では、こちらの者がご案内いたします」


 案内係りがそう言うと、後ろでひかえていたふたりの女性がサッと歩き出す。フィオは粉やフリルが舞う狭い通路を、きょろきょろしながらついていった。

 小さい頃はヒュゼッペの麦畑を駆け回り、風車によじ登っていた。少し成長してからはドラゴンレース漬けの日々。花の香りが漂い、服も人もキラキラ輝いているなんて、軽く異世界に迷い込んだ気分だ。


「こちらにおかけください」

「はい。え、え、え?」


 イスに腰かけたとたん、薄布に包まれて、軽く結っていた髪がほどかれる。まだなにも言っていないのに、髪結師は前髪をクリップで留めて、後ろで髪を分けはじめた。


「あ、あの! 髪型はまだ決めてないんですけど」

「ご心配なく。ご予約時に承っております。もちろんドレスも装身具も」


 微笑みながらグッと肩を押されては、大人しくするしかない。

 フィオは鏡の中の自分とにらめっこしながら、ジョットに腹を立てた。せっかくなら自分の好きなものを選びたかったのに。

 あれ? 待って。それじゃあ私は今から、ジョットくん好みに仕立てられるってこと?


「あらっ。りんごのように血色のいいお顔! おしろいはひかめにしますわね!」

「わわわっ! こ、これは違いますから……!」


 突然、化粧師に顔を覗き込まれ、フィオは慌てて下を向く。しかし「ダメですわ。前をお向きになって!」とあごを持ち上げられた。

 首からグキリと嫌な音が鳴る。

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