86 レース専門用語講座②

 この人のやさしさに触れる度に、もっともっとと、力になりたい欲望があふれる。


「んー。ヒュゼッペレースを例文にすると……進路レーン一時方向ワンかな。ライダーから見て、時計の文字盤になぞらえた方向を言ってね」

「わかりました」

「あとは追い風をフォロー、向かい風をアゲって言うよ。風速は競技場コロセウムに表示されるからね。五メートル以上になったら教えて欲しい。それから向かい風アゲの時も教えて」

「飛びにくいからですか?」

「シャルルは向かい風アゲでも粘れる子なの。だから私たちにとっては、勝負に出れるチャンスってわけ!」

「向かい風なのにかっこいいですね!」


 誇らしげに鳴いてすり寄るシャルルと、笑顔で抱きとめるフィオを見つめる。

 逆境の中を飛んでいけるシャルルは、怪我を負ってなお闘志を燃やすフィオの姿と重なった。ふたりは本当に運命の糸で結ばれた相棒なんだ。言葉では表せない力を感じて、胸が震える。

 やっぱり少しうらやましいと思ってしまうけれど。


「あとはレース全体の用語かな。障壁区画ジャマーゾーンは単純に略してジャマー。観客や建物を守る防壁はガード。それから飛跳石とびいしはみんなラットって呼んでるね。あとペナルティのことも〇.五秒を半ペナ。一秒をワンペナ。二秒をツーペナって言うよ。覚えられそう?」

「えっと、一気にはちょっと……」

「ふふっ。用語自体は難しくないから、慣れちゃえば簡単だよ。じゃあね……レーン五、トゥ、レフトアップ。フォロースリー、を訳しなさい」

「ええ!? いきなり! ちょっと待ってくださいね。ええと」


 ジョットは慌てて今書いたばかりのメモを見た。我ながら急いで書いた汚い字を解読するのに手間取る。


「えー。進路五時方向、次、左曲がって上昇。追い風三メートル、ですか?」

「正解! さすが少年。飲み込みが早いね。じゃ、次はシャルルに乗って動くから、それを指示に置き換えて言ってみよう」


 シャルル、とフィオが呼ぶと、甘えたナイト・センテリュオは身をくねらせて走ってくる。だが、ふとなにかに気づいた様子で立ち止まった。

 ジョットとフィオにもその感覚が伝播し、上を見た瞬間ドラゴンが降ってくる。


「おいおいおい。ライダーとドラゴンが地べたでなにやってんだあ。まさかライダーが重過ぎて飛べなくなったとかじゃないよなあ」


 みつあみに結った長い金髪を払い、若葉の目をにたりと細めてジン・ゴールドラッシュが見下す。彼が跨がった相棒ドラゴンも、おかしそうにのどを震わせた。

 それは翼竜科マティ・ヴェヒターだ。赤茶色の細い体に、前脚と一体化した大きな翼を持つ。顔には左右に三つずつ目玉があり、オレンジ色の光彩が忙しなく動いていた。


「レース専門用語を覚えてたみたいですよ、アニキ」


 突然後ろから現れた人物に、ジョットはぎょっとした。周囲に構わず記憶石の地図を見つめているのはジンのナビ、トンカチ・スタンパイクだ。彼も今日は相棒ドラゴンを連れている。

 植物科ヌー・ムー。茶色の体は胸部や脚の先、しっぽがもこもこと丸い綿で覆われている。頭頂部から首にかけては毛量が多く、角はもこもこの上に先端がちょこんと出ているだけだった。


「今さら用語学習かよ! ここは素人が出る幕じゃねえ。とっとと帰ってママのおっぱいでも吸ってな。クソガ、ぶほお!?」


 へらへら笑っていたジンの口目がけて、なにか飛んできたと思ったら、白い粉が破裂した。見ればフィオが片手に鎮静香を持って、ぽんぽん手遊びしている。

 ジンは白煙を吐き出しながら激しくむせ込んだ。


「フィオこのやろう! 俺の世界遺産級顔面美が傷ついたら、泣くのはお前だぞ!」

「そうだね、泣いちゃうかも。うれしくて」


 ぶほぶほとマティ・ヴェヒターが噴き出した。なにかと思ったら、ジョットの心に爆笑の波が伝わってくる。

 粉まみれの手で、ジンは相棒をぽかりとやった。


「今お前が笑うところじゃねえからな」

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