85 レース専門用語講座①

 けれどしばらく行動をともにすることになった今、覚えておいて損はない。


「わかった。教えてあげる」

「やった……! 今? 今からですよね!?」

「ダメだってば。今日はもう寝るの。明日から」

「そんな。楽しみ過ぎて寝れませんよ! ねえフィオさあん」


 どしゃ降りの雨を降らしそうな黒い雲を背負っていたのに、もう快晴の笑顔になっているジョットに、フィオはほだされそうになる。少年といつまでも旅ができたら、それはそれで楽しいに違いない。

 でもこの子には無限の可能性あしたがある。私に縛りつけちゃいけないんだ。


「明日ね。眠ればすぐ朝になるよ。ほら、深呼吸して落ち着いて」


 角笛のひもを持って、フィオはゆっくりと回してみた。風の通り方が変わって、音色はおだやかなものになる。


「もう。俺ドラゴンじゃな……ふあ」


 言ってるそばからあくびが出ているジョットを、くすくす笑う。角笛の音は赤ん坊の寝かしつけにも効くと噂されている。どんなにしっかりして見えても、やっぱりジョットも子どもだ。

 フィオは寝落ちても転落しないよう、腰に回った少年の腕を掴んだ。そこでしまったと気づく。どうして居場所がわかったのか聞きそびれてしまった。

 せっかく静かになった子どもに話しかけたら、本当に徹夜で勉強会をやらされかねない。


「まあきっと、シャルルの気配を辿ってきたのね」


 少年の交信能力は、シャルルと相性いいみたいだし。


「それにしても、あの髪を引かれるような感覚は……。前も確か、少年と再会した時に感じたんだったよね?」


 夜風と遊ぶ髪に手をやる。ファース村でもカフェバーでも感じたものは本当にかすかで、気のせいだと言われればうなずくしかない。


「もしかして、変なものにかれてる、とか」


 にわかに背筋がぶるりと震えて、フィオはそれ以上考えないようにした。



 * * *



 翌日、ジョットはフィオに連れられて二ノ岳と呼ばれる山に来ていた。ドルベガから北に位置し、橋で繋がっている細く突き出た山の一部だ。その頂上は開拓され、競技場コロセウムがでんと構えている。

 競技場コロセウムはロードスター杯エルドラドレース参加選手のために、練習場として開放されていた。


「まず簡単なところから説明するね。右折ライト左折レフト。これは右に曲がれ、左に曲がれって意味。それから上昇アップ下降ダウン。これは上に行け、下に行け、ね」


 他のライダーとナビ、ドラゴンたちが飛び交って練習する中、ジョットは片隅で這いつくばり、指を振って説明するフィオの言葉を手帳に書き殴っていく。

 フィオの後ろでは、シャルルが指の動きに合わせてひょこひょこと動いていた。

 熟年コンビとは思えないかわいさ。頭萌えハゲる。


「例文としては、右折ライト下降ダウントゥ上昇アップ左折レフトとか」


 などと鼻の下を伸ばしていたら難解な暗号文が流れてきた。


「も、もうちょっとゆっくりお願いします……!」

右折ライト下降ダウンは右曲がってから下へ。上昇アップ左折レフトは上昇しながら左へって、微妙な意味の違いがあるから注意してね」

「なるほど。言葉の並びも大事なんですね。あとさっきなんか、間に挟んでませんでした?」

トゥね。次って意味もあるし、指示の区切りを示すものでもあるよ」


 大きくうなずきながら、ジョットはえんぴつを走らせていく。


「次は進路レーン。進路方向を教える言葉ね。ライダーから進路が見えない時に使うの。ヒュゼッペレースだったら森から湖のところ。湖の位置をあらかじめ伝えて、ライダーはそれを参考に森への侵入角度を決める。早めに伝えるのがコツだよ」

「あっ。あの時とっさに答えられなくてすみません……」

「ううん。少年のナビのできがよかったから、つい聞いちゃったんだ。今回はよろしくね」


 笑って受け流しながら、フィオはさらりとうれしい言葉を添えてくれる。期待の眼差しに、ジョットも笑顔で応えた。

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