77 深部へ③

 とたん、耳が痛いほどの静寂に包まれた。薄暗い坑道を見回して、フィオはため息をこぼす。


「やれやれ。取り残された人助けにきて、自分が取り残されるなんてね」


 こんなことならザミルにも来てもらえばよかった。悔やみながら奥を向くと、数メートル先も見えない闇がある。

 ここから先の照明は全部砕けたようだ。もしくは、落盤で道が塞がれているのかもしれない。


「……明るいほうにいこう」


 フィオはさっき自分が転がした発光石を拾って、曲がり角で腰を下ろした。左右どちらの道の様子もうかがえる。できれば暗闇のほうはあまり見たくなかったが、見えないとなるとそれはそれで恐ろしかった。


「だいじょうぶ。だいじょうぶ。これくらいなんでもない。すぐ助けが来るから。落ち着いて、フィオ・ベネット。あなたもう二十七でしょ」


 ゆっくり呼吸していると、また地響きがぞわりと鼓膜をなでた。尻の下から震動が伝わってきて、フィオは奥の暗がりへ目を向ける。

 岩の崩れる音はしないが、この鉱山はまだ動いている。いつどこで落盤が起きてもおかしくなかった。


「そ、そうだ。角笛」


 嫌な想像ばかりが頭を占めて、フィオは気を紛らわせようと角笛を取り出した。


――命日に生まれてくるなんて、この子は母さんの生まれ変わりに違いない! シャルル。シャルロッテから取ってシャルルだ!


 この短角たんかくを生やした幼体ドラゴンに、名前をつけた父オリバーの声がよみがえる。シャルルの名前は、母シャルロッテからつけられた。母の生まれ変わりと信じた父は、シャルルをいたくかわいがっていた。

 父は、シャルルに母を重ねていたのだろうか。

 生まれてすぐ母を亡くしたフィオにとって、シャルロッテは転写絵てんしゃえの人であり、父が話す思い出話の住人だった。悪く言えばそれだけの、希薄な存在だ。

 けれど父にとっては特別な人なのだと、幼心ながら感じていた。思い出を話す父の顔は、フィオの知らない表情をしていたからだ。

 それがなんだか遠くて、寂しかった。


「お父さんは、どうして」


 脳裏に突然、鮮烈な赤が燃え広がる。地下にはあるはずのない、煙のにおいが鼻腔をかすめていく。


「どうして私を、置いていったんですか……」


 父オリバーと買い物に出かけた帰りだった。フィオはもちミルクアイスを買ってもらって、父と繋いだ手をぶんぶん振って歩いていた。


――火事だあっ! 火消し組を呼べ!


 すると大人の男の人が叫んでいた。その後ろには燃えている家があって、近くの家の人が慌てて外に出てきていた。

 火は窓から噴き出し、外壁を黒く焦がして、なにかが弾けるような音がひっきりなしに響く。

 ヒュゼッペの風は、その恐ろしい赤をますます勢いづかせた。


――おかあさあああんっ!


 燃える家の前で子どもが泣いていた。フィオとそう歳の変わらない女の子だった。炎と同じくらい真っ赤になって濡れていた頬を、よく覚えている。

 その子がふらりと家へ近づいたと思ったら、父はフィオの手を振りきって駆け出していた。はじめて父から受けた衝撃と少しの痛みに、フィオは呆然と立ち尽くした。


――フィオはシャルルのそばにいてあげなさい。


 気づけば父は、買い物袋を置いて袖をまくっていた。メガネ越しにやさしく微笑んだ目が、シャルルに移る。父の大きな手が、幼体ドラゴンのまるい頭をそっとなでた。


――僕らの子を頼むよ。


 オリバーは相棒ドラゴンといっしょに、燃え盛る家の中へ飛び込んでいった。フィオはわけもわからないまま、ただその背中を見送ることしかできなかった。

 十分、いや数分後かもしれない。父の相棒ドラゴンが、女性をくわえて戻ってきた。しかしオリバーの姿はなく、相棒も女性を置くとすぐにまた炎に突っ込んでいった。

 さらに数分が経過しても、火消し組が放水をはじめても、ついにすべての火が煙に変わっても、父もドラゴンも帰ってはこなかった。

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