54 その手は背中を押したのか、突き飛ばしたのか②

「それがお前の目的か」

「あ? あんたがクズだからこうなったんだろうが。俺は別に、フィオさんがレース復帰してくれればそれでよかった。ま、まあ、あわよくば? 少しでも長くいっしょにいたいとか、思わなくもなかったけど!」


 勢いで同行を申し出た時のことを思い出すと、何度でも照れる。

 腰に掴まったのは二回目だったが、やっぱり胸が高鳴った。安心するぬくもりと、ふにっとやわらかい感触が堪らない。

 彼女がくれたヘアピンは、今日も前髪に留まっている。シャルルの角笛に次ぐ、ジョットの宝物だ。触れる度、フィオとの繋がりを感じられる。


「お前のその思いが、フィオを苦しめることになる」

「は? どういうことだよ」


 動揺させ、気持ちを削ぐつもりか。ジョットは警戒の目を向ける。

 しかしキースは逃げるように視線を下げた。うつむいて表情を隠す。まつ毛からこぼれる光彩は、痛みを帯びているようだった。

 ジョットの胸に不安が過る。


「おい、黙るな。なんで復帰して欲しいって思いが、フィオさんを苦しめるんだ!」


 胸ぐらを掴んで詰め寄ると、キースの耳元で紫のイヤリング型伝心石が儚く揺れた。


「……フィオの足は治らない」

「え」

「シャルルが離れて、精神状態が不安定だったから、フィオにはまだ伝えていないが。おそらく大腿骨頭部だいたいこっとうぶに異常がある。骨折時に細菌が入ったかなにかで……。はっきりした原因は、オルセン医師にもわかっていない」

「そんな。ギルバートさんにも……?」

「つまり、治す手立てが見つからない状態だ。今は運動時だけ痛みを感じるようだが、悪化すれば常に痛むようになってもおかしくない」

「待てよ、それじゃあ……! このまま飛びつづけたら、フィオさんの足はどうなるんだ!?」


 ジョットの手を外させて、キースは壁に背を預ける。表情は重々しく、疲れがにじんでいた。


「歩けなくなる可能性が高い。一生な」

「そ、んな……うそだ、うそ……」


 突然力が入らなくなり、ジョットは壁に体を打ちつける。そのまま崩れそうになったところをキースに支えられ、便器に座らされた。

 脳裏に食卓でむくれたり、輝く笑顔で世界をみせてくれたりした、フィオの姿が瞬く。


「だってあの人は、三度の飯より飛ぶことが好きなんだ! すげえうれしそうに笑うんだよ、落下の恐怖なんてなかったみたいに……! なのになんで、フィオさんがそんな目に遭わなきゃならない!? なあっ、どうして治せないんだよ……!」

「……治せなくとも、うまくつき合えば軽い痛みだけで過ごせるかもしれない」


 ハッとしてジョットは顔を起こす。キースはどこか遠くを見つめる目をしていた。そうして彼は、別のものに目を向けることで、フィオを案じていたんだと気づく。


「レースライダーじゃなくて、郵便配達員とかか? あんたがナビやめたのも、諦めろって言うのも全部、フィオさんを守るため……?」

「これでわかっただろ。夢を追いかければ追いかけるほど、あいつは自由を奪われていくんだ。最後には……絶望しか残らない」


 ジョットは服を握り締め、唇を噛んだ。

 確かに無難な道だ。レースをつづけて飛べなくなるより、もっと安全にドラゴンと関われる仕事はある。

 けれどそれであの人は、またあんな風に笑ってくれるのか。


「絶望って言うなら、ロードスターを諦めることだってフィオさんには――!」

「責任が持てるのか」


 低く言い返され、ジョットは言葉に詰まる。思わず目をさ迷わせる少年の前に立ち塞がり、キースは腕を組んだ。


「歩けなくなったあとのあいつの人生に、お前が責任なんて持てないだろ。それでも飛べって言うのは応援じゃない。身勝手なわがままだ」

「わがまま、なんて、そんなつもり……」

「そうだろうな。フィオはお前の応援を喜んでる。きっと応えたいと思ってる。だがその善意と善意が、徐々にあいつを苦しめ、傷つけることになるんだ」


 なにも言えず、打ちひしがれる。正しいはずの思いが、巡りに巡って大切な人を苦しめるだなんて、考えたこともなかった。

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