53 その手は背中を押したのか、突き飛ばしたのか①

「言いたいこと言って、言い逃げなんてさせるか!」


 フィオもキースを追って高度を上げる。他のライダーたちはその下をまっすぐ飛び、抜かしていった。

 だがキースにもフィオにも焦りはない。

 ジェネラスとシャルルは翼を張って構える。その後ろから風のうねりが迫った。コーダ・タルタル山脈から吹き下ろす春告げの突風。荒れ狂うドラゴンのごとく咆哮を上げながら、翼を叩きつける。

 鉱物科の強靭な肉体さえも、すさまじい威力で吹き飛ばした。

 息も奪われる暴風の最中さなか、フィオは振り落とされないようにしがみつく。キースの放った弾丸を引き鉄に、足は絶えず痛みを発していた。


「だいじょうぶっ。これくらいなんとも……!」


 前回も前々回のヒュゼッペレースも、フィオを優勝に導いたのはこの春風だった。突風を乗りこなせば、一気に一位集団へ追いつくことができる。

 過去の走りをなぞりながら、フィオは風となって麦畑を渡る。緑の海原にぽつんと佇む古い風車が見えた。それを迂回して、アンダルトの街へ向かうハーディとパピヨンを捉える。

 前のキースは勢いを殺すため大きく回り込み、二位集団の先頭に踊り出た。フィオはさらに内側を攻めようと、体を思いきり倒す。

 だがシャルルがそれを拒んだ。


「いいの! いける! やりなさい!」


 シャルルはひと声吠えて、体が逆さまになるほどの鋭い曲線を描く。強烈な重力と足の痛みに、フィオは呼吸ができなかった。さらに激しい遠心力が、振り落とそうと襲いかかってくる。

 下肢が震えて使いものにならない。冷や汗が噴き出す。手が滑る。背筋に、転落した時の悪寒がよみがえる。

 その時ピタリと、全身にかかっていた負荷が消えた。シャルルは姿勢を水平に戻し、古い風車から大きく逸れていた。


「なにやってるの! 戻っ――」


 激しく鳴いて、シャルルはフィオの声を掻き消す。

 旋回が大きくふくらんでしまった隙に、二位集団が次々と抜かしていった。


「まだっ。まだ追いつける! 後ろについて!」

『フィオさん、も、もういいです……』

「なに。悪いけど今お喋りしてられないから」

『シャルルが嫌がっているんです! もうフィオさんに痛い思いさせたくないって! 二度と振り落としたくないって!』


 フィオは目を見張った。近くにいるわけでもないのに、ジョットはシャルルの心を読んだというのか。伝心石から声を聞き拾ったのだとしても、にわかには信じがたい。


『足、痛いんですよね。無理してるんでしょ。本当は俺、わかってました。キースから、聞いて……』



 * * *



 ナビ席の通路に立ち、ジョットは登録番号と同じ五〇番の席を探していた。そこへ、後ろからきた人物にぶつかられてよろめく。

 文句を言おうとしたが、相手は肩を掴んできて、ジョットを通路の奥へと押しやった。


「ちょっと! なんですか! 離し、ってあんたキース・カーター!」


 見上げればフィオの元ナビで義兄のキースだった。しかしキースは目もくれず、ジョットを押さえつけて引きずっていく。


「おいっ、ふざけんな! 俺はナビの準備で忙しいんだよ! あの人を待たせるわけにはいかないんだ!」


 殴ってもつねっても、キースはびくともしない。そうこうしているうちに、連れてこられたのは男子トイレだった。戸惑うジョットの声など聞こえていないかのように、キースはまっすぐ個室へ向かう。

 押し込まれそうになって、足を踏ん張る。だが背中を突き飛ばされて、便器の上に倒れた。息つく暇もなく、今度は壁に向かって放り投げられる。

 気づけば、キースと壁に挟まれていた。


「俺そういう趣味ないんですけど、おっさん」

「誰が誰のナビだって?」


 前髪の奥から覗くワイン色の目は、赤みが増して見えた。

 なにを今さら。ジョットは怒りと、大いなる優越感を込めて口角をつり上げる。


「俺がフィオさんの新しいナビだ。あんたはもうお呼びじゃないんだよ」

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