31 譲れないもの

 確かティアが、医者はブラウン家に寄ってからくると言っていた。ギルバートの専門は人間だが、小さな村の唯一の医者だ。獣医のまねごともしている。

 ギルバートはイスを一脚持ち出して、だらしなく腰かけた。


「ディックは指の爪が剥がれて、出血していた。でも大したことはない。グルトンに関しては無傷だ。さすがレースライダーだな」

「ギルバート?」


 彼らしくない振る舞いにフィオは眉をひそめる。特に、ギルバートから褒められたことなんて、この半年間で一度もない。

 ギルバートは診察をはじめる様子もなく、胸ポケットから紙巻たばこを取り出した。それを口にくわえ、点火石てんかせきで火をつける。

 うまそうに煙を吸う姿も、フィオははじめて見た。


「俺は医者だ」

「今その状況でよく言ったね」


 そうだそうだ、と言うようにシャルルが声を上げ、窓から顔を出した。


「まあ聞け。そこの甘えたなドラゴンもだ。俺は仕事に妥協はしない。ましてや、情に流されて誤った判断を下すこともしない。あってはならないと思っている」


 フィオは黙って煙を食らう医者を見つめた。


「フィオ。俺の許可なしに、この村から出られると思うなよ」


 シャルルのうなり声が低く部屋を這う。外からアヴエロのうかがうような声が聞こえた。

 ゆったりと歩み寄り、フィオは相棒を落ち着かせる。


「それがあなたのゆずれないものなら、私にもゆずれないものがある」

「三年待て」

「長過ぎる。私は二十七だよ。もうあとがない」

「どうせ後悔する」

「だったら、やって後悔したい」

「最善の選択とは思えないな。てっぺんを獲るならなおさら、万全の状態にするべきだろう。今までそうだったお前さんさえ、叶わなかった夢だぞ」


 フィオはシャルルののどからあごへ手を滑らせた。くすぐるように掻いてやると、青い目がうっとりとほころぶ。

 高く高く、どこまでも透き通った空色が、何度でもこの心を焦がす。


「私には、これしかないから」

「……だからこそだろ」

「ただのデブなオバサンじゃ、生きてる心地がしないの。わかって。ううん、わからなくていい。私とシャルルは、今年のロードスター杯に出る。誰になんと言われようと」


 振り向いた時、まるで警告のように足が痛んだ。しかしフィオはみじんも表情には出さず、ギルバートの目をひたと見据える。医者もまた、水色がかった灰色の目をフィオから外すことはしなかった。

 互いに一歩もゆずらないふたりの間で、紫煙だけが静かにくゆる。

 やがて、拮抗きっこうする空気を先に解いたのはギルバートだった。彼は缶を取り出し、中にたばこの灰を落とす。大きなため息とともに席を立った。


「腹が減った」

「え」

「下で飯と酒を入れてくる。今夜はバカな患者を見張るはめになりそうだからな」


 フィオは拍子抜けしたまま、ギルバートを見送った。すぐにでも、自分の代わりにティアかジョットを寄越してくるかと思った。

 扉を気にしつつ、フィオは急いで荷造りをはじめる。しかし十分が経ち、三十分を過ぎても、部屋を訪ねてくる者はいない。


「そっか。そういうことか」


 深いえんじ色の生地に、黒の線が入った詰襟の上着を羽織る。相変わらず肩回りがかっちりしていて、金の飾りボタンや黒のスカーフは堅苦しく感じた。

 上着とそろいのホットパンツとタイツを合わせ、黒いロングブーツに足を通す。両太ももにサイドバッグと、腰のポーチを装着すれば、身支度はひと通り完了だ。


「ドラゴンレースの発祥だからって、竜騎士の制服まねなくてもいいのに。……これ以上太るとやばいかも」


 仕上げに髪をみつあみに結っていく。レースライダーの正式な競技服、ライダースーツ姿の自分に会うのは、六ヶ月ぶりだった。


「シャルル、これを下に運んで。そっと静かにね」


 荷物が入ったトランクを、窓からシャルルに渡す。フィオは最後に部屋を見回した。

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