第5話 市川家の人々


「どうかな? おかしいところはない?」

 制服に身を包み、くるりと一回転する。着慣れている制服もこうして外から見ると別のように見える。何せ自分の顔をした別人が着ているのだ。

「バッチリだよ。問題ない」

 シャリアは何とか立ち直ったのか、それともやけになったのか元気を取り戻した。トイレに行ったあとはシャワーも浴びたのだが、そのときも恐る恐るという感じで、何とか洗いきることができたらしい。身体を拭くのも一苦労である。女性が男性になるのはかなり大変なのかもしれない。

 もちろん両介もトイレを済ませたが、ちゃんと便器に座ってした。流石に野ざらしでする度胸はない。

 こうして一つの局面を乗りきることはできたが、次の問題はすぐそこに迫っている。

 リビングの扉を開ければ、そこには家族がいるのだ。今までは両介としか接してこなかったから、多少おかしなところがあっても問題なかった。しかし今度は違う人間と接する必要がある。


「やっぱり引き籠るのもありなんじゃないかな。調査は夜にやればいいんだし」

 最初に考えたのがそれだった。部活や委員会などに入っていないし、自分がいなくても周囲は特に困らない。家族にも病気だと言い張ればいいのだ。

「いつ戻れるかわからないし、ずっと休むわけにもいかないだろ。君のご両親を心配させてしまうし、勉強だって遅れてしまう。元に戻ったときの生活をなるべく考えないとね」

「その生活が酷いことになる恐れがあるんだけど」

 言っていることは理解できるが、シャリアとは性格や考え方がまるで違う。行動が変われば、嫌でも目を引いてしまうのではないか。多少の違和感は仕方なくても、致命的なズレが出るのは避けたい。

 この言葉遣いもそうだ。自分は間違ってもこんな喋り方はしない。何度か指摘したが下手に直そうとしたら、余計に変なことになった。このまま好きにさせるしかない。ドキドキしながらシャリアの肩に乗る。


 別人の生活はここから始まるのだ。大きく深呼吸してシャリアは扉を開ける。


「おはようございます!」


 気持ちの入った元気溌剌な挨拶は野球部の新入部員にも負けない。実に爽やかで両介はいきなり頭を抱えたくなる。


「ダメだって! いきなり何やってんの!」

「ご、ごめんなさい。つい癖で」

 職場や部活ならまだしもここは自宅のリビングだ。声量が明らかに間違っている。案の定、両親はぽかんとしていた。今までこんな元気に挨拶したことないので、反応に困っていた。

「私も手伝うよ」

 気を取り直したシャリアは母の持っていた食器に気づき、素早く動いた。

「えっ、あ、ありがとう。座ってていいのに」

「そんなわけにはいかないよ」

 立ち尽くしていた優子の代わりに台所へ向かい皿を運んでいく。てきぱきとした動きは見事なものだが、ここにも問題がある。

「だ、だから僕はそんなことしないんだって。いや、自慢げに言うことじゃないけどさ」

「だったら元に戻ってから習慣にすればいいじゃないか。悪いことではないよ」

 堂々と喋っているが、両介の声は他の人間には聞こえていない。昨日試してみたが通行人は何の反応も示さなかった。恐らく猫の鳴き声に聞こえているのだろう。ただ他人の視線に気をつけないといちいち猫に喋りかけている少し危ない人に見えてしまう。

 両親はどこか戸惑っていた。今までほとんど手伝ったことがない息子がいきなりやりだしたのだ。困るというよりもどうしたんだろうと思っているのだろう。

 手際よく料理を運び終えると、シャリアは二人の目を真っ直ぐに見つめ、力強く口を開く。


「実は父上たちに頼みたいことがある。この猫を飼いたいんだ」

 両介を持ち上げる。家ではペットを禁止にしているわけじゃない。アレルギーなどもなかったが、万が一断られることもある。黙って飼えばいいのだが、それはだめだとシャリアに拒否された。ちゃんと許可を取りたいらしい。

「あ、ああ。別に構わないぞ」

 息子の気合に押されたのか、昭三はぎこちなく了承する。こんな風に正面から頼みごとをするのはいつ以来だろうか。

「ありがとうございます。それじゃいただきます」

 お礼を言いながら、シャリアは食事に手を付ける。背筋がピンと伸びており、箸の使い方も見事だった。食べる勢いは凄いのに少しも姿勢は乱れていない。

「猫ちゃんは何を食べるのかしら」

「缶詰やミルクでいいんじゃないか。キャットフードなんてないからな」

「私たちと同じものを食べさせても大丈夫だよ。猫は雑食っていうし」

 シャリアは空いた皿に料理を取り分ける。両介の腹も随分減っているが、味覚がどうなっているのかわからなかった。そもそも猫はどこまで人間の食べるものを口にできるのか。

 何度か匂いを嗅いでみるが特に拒否反応は起こらない。恐る恐る口にしてみると問題なく食べることができた。しかも美味い。どうやら舌はそこまで変化してないようだ。昨日からろくにものを食べていないので、夢中で食べ続ける。

 食事をしながらも耳だけはシャリアたちに傾ける。元気が良すぎるのは問題だが、致命的なボロは出ていない。時間を掛けて打ち合わせした甲斐があったものだ。


「そういえば仁奈はどうしたんだ。食事をしないつもりかな」

 シャリアの言葉に両介の耳が小さく動き、嫌な予感が胸を覆っていく。家族が揃った食卓で一つだけ空いている席があった。

「また食べていかないつもりかしら。心配だわ」

「放っておけ。こなければこないでいい」

 新聞を読みながら、ぶっきらぼうに言い放つ。見慣れた景色であり、放っておくのが当たり前だからだ。


「私が呼んでくるよ」

 だがそんな空気や景色など理解していない人物がいる。シャリアは勢いよく立ち上がり、リビングを出た。何となく予想できた行動だ。両介は慌てて追いかける。

「そ、そんなことしなくてもいいよ。今は食事をしよう。仁奈は自分で何とかするからさ」

「母上が腕によりをかけて用意してくれたんだ。無駄にする必要がどこにある。仮に調子が悪くて食べられないなら、一言でも声をかけるのが筋だ。私たちは共に暮らしているんだからね」

 真っ直ぐな瞳を浮かべ、迷いのない言葉を発する。言うことは正しいのだが、そう簡単にいかない事情がある。何とか止めようとするが、タイミング悪く階段から足音が聞こえてきた。

 仁奈は兄を一瞥するとすぐに目を逸らし、通り過ぎようとする。


「待つんだ。朝食はどうするんだ? 父さんたちが待っているぞ」

 呼び止めるが振り返りもしない。さっさと玄関に向かう。

「ちゃんと食べないと元気が出ないよ。活力は朝から生まれるものだからね」

 一度も目を合わせず、靴を履き替える。刺々しいナイフのような雰囲気。近寄るなという空気が全身から出ている。物言わぬ背中がはっきりと兄の存在を拒絶していた。常人ならそれらを察して、放っておくところだ。

「食べたくないなら理由を言って欲しいな。黙っていたら何もわからない」

 シャリアはまったくめげることはない。力強い足取りで回り込み、扉の前に立ちはだかる。どんな怪物も越えられない屈強な門番だ。

「お前には関係ないだろ。どっかで適当に食べる」

 兄の思わぬ行動に面食らったのは仁奈の方だ。舌打ちしながら煩わしそうに答える。

「やっと目を合わせたね。ちゃんと喋れるじゃないか」

 満足そうに頷く。空気などまるで読んでいない。

「しかしその言葉遣いはいただけないな。刺々していると美人さんが台無しだよ」

「ウザイ。気持ち悪い。さっさとどけよ」

 心の底から鬱陶しそうにしている。嫌々相手しているのは目に見えてわかるが、シャリアは気にしない。

「食事をしないならちゃんと父さんたちに言うんだ。自分の意思を伝えるのは君より小さい子でもできることだよ」

「うるさい! お前には関係ない!」

 声を張り上げ、シャリアの横を通りすぎると投げ飛ばすような勢いで扉を開けた。今度はあえて止めることはしなかった。遠ざかる背中を静かに見つめている。


「少し前からあんな感じなんだ。何度か喧嘩したことはあったけど、ここまで険悪になることはなかった」

「思い当たる節は」

 両介は小さく首を振る。本当にわからなかった。何となく話さなくなっていき、見えない壁を感じる頃にはこんな風になっていた。

「父さんたちとも上手くいってないみたいでさ。どうしたらいいかわからないんだ」

 やがて仁奈は家族の場に顔を出さなくなった。両親も意思疎通を図ろうと色々やっているみたいだが、効果はないみたいだ。

「心配だね。幼さからくる反抗期にも見えない。ああいう子は放っておけないな」

 刑事という職業上、似たような子供は何人も見てきたのだろう。心の底から仁奈を案じている。

「これは僕たちの問題だから、シャリアは気にしないでよ。君には何よりも優先しなくちゃいけないことがあるだろ」

 踏み込むなと拒絶しているわけじゃない。本当に申し訳ないのだ。こんな平凡な一家族のことに巻き込みたくない。彼女は宇宙規模の事件を追っている刑事なのだ。

「今は私も市川両介として生きている。それなら私にとっても大事なことだ。できるかぎりのことはさせてもらうよ」

 デリケートな問題であることはわかっていても放っておけない。刑事としての使命感だけでなく、シャリアという人間は見て見ぬふりなどできない。他人の痛みや問題を当たり前のように自らのものとして受け止めることができる人間なのだ。

 そんなシャリアに両介は改めて眩しいものを感じてしまう。


「と、とにかく行こう。食事が冷めるよ」

 そそくさと玄関を後にする。これ以上は心配させたくなかった。自分がどんな顔をしているのか。見られるのも恥ずかしかった。


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