第4話 立ちはだかる危機


 窓から差し込んでくる光に両介は瞼を開ける。暖かなベッドの上は柔らかく、いつまでも身を埋めていたかったが、その誘惑はあっさりと断ち切られた。

 市川両介の肉体がここにはなかったからだ。折り目正しく畳まれた服だけが置かれており、時計の針はいつも自分が起床する時間より早い。

 ゆっくりと身を起こすと自分でも驚くほど軽かった。一応手足を確認するが毛むくじゃらのままである。わかっていたが昨日の出来事は夢ではないようだ。

 ベッドから飛び降りる。重みなど感じないし、手足に痛みもない。人間でいえば四つん這いで動いているはずなのに窮屈ではないのだ。前から自分のものだったように動かせた。驚くほど馴染んでいる。

 開いていた窓から両介は屋根へと躍り出る。何の躊躇いもなく行動できた。普段の自分なら間違いなくできないし、やろうとも思わないことである。頬を撫でる爽やかな風が眠気を吹き飛ばしてくれた。鳥の鳴き声とともに運ばれる朝餉の匂いは腹を刺激する。


「こんな風に見えるんだ」

 自然と言葉が零れていた。窓から眺めることは何度もあったのに、一歩外に飛び出して見るとまるで違うもののように映り、とても新鮮だった。

 のんびり景色を味わっていると、陽光に照らされる路地を走る男が目に入った。屋根を伝いながら庭へと躍り出る。こんな大胆なこともできるのだから不思議である。


「おはよう。昨日はよく眠れたかい」

「何とかね。特に異常はないみたいだ」

 自分でも驚くほどぐっすりと眠ってしまった。それだけ疲れていたのだろう。

「シャリアはどうだった?」

「おかげさまでよく休めたよ。元気一杯だ」

「だからってそんな動かなくてもいいのに」

 蒸気した頬に粒となって流れる汗。手足には重りを付けている。常人からすれば朝の軽い運動というには度を越えているが、彼女に疲れた様子は見られない。流石は宇宙警察の刑事といったところか。


「日課だからね。さぼるほうが気持ち悪くなるよ」

 ラジオ体操ですら億劫に感じる両介には考えられない行動だった。

「それに少しでも早くこの肉体に馴染みたいの」

「やっぱり違うものかな」

「筋力はもちろんリーチやバランスも違ってくるの。関節の可動域も狭いし、自分のものなのに自由に動かせない。あちこちから押さえつけられているような気がする」

 両介から離れると演武を始める。鋭い突きに振り抜かれる蹴り。滑らかな身のこなしから放たれる一撃は岩をも打ち砕いてしまいそうだ。自分の手足はこんなにキレがあったのかと驚いてしまう。中身が違えば、こんな風に動かすことができるのだ。


「まだまだイメージに肉体が付いてこないよ。感覚を擦り合わせないと」

 両介には充分すぎると思う動きも、彼女からすれば鎖で縛られたようなものである。それだけ高いレベルで動いていたのだ。凡人には理解できない。

「そっちはどう? ちゃんと動かせているかな?」

「不思議なことにね。驚くほど合っているよ」

 自分でも驚くくらいすんなり使えている。普通に生活するだけなら困らない。

「両介ももう少し鍛えたほうがいい。正直に言わせてもらうけど筋力がなさすぎるわ」

「君と同じ基準で考えないでくれ」

 宇宙警察の特殊捜査官と平凡な高校生ではスペックが違いすぎる。不満を抱かれても困るのだ。

「猫でもできるトレーニングメニューを考えておくよ。日々の鍛錬は裏切らないから」

「え、遠慮しておくよ。絶対に身体がもたないから」

 ムキムキになった猫の肉体が頭に浮かぶ。見ていて気持ちの良いものではない。


 玄関の扉を開けて家の中に入る。家族はまだ起きておらず、ひっそりとしていた。何気なく後ろを付いていったが、シャリアはある場所でピタリと止まった。大きな背中がぶるぶると震えている。


「実は最大の問題が残っている」


 世界の終わりを見たような深刻な表情を浮かべている。声音は暗く沈んでおり、絶望感が漂っていた。この女性がこんな態度をとるなんて初めてのことであり、思わず息を呑んでしまう。只事ではないのが伝わってくる。

「朝からトイレに行きたくて仕方ないんだ」

 思わず息を漏らした。男女関係なく等しく訪れる生理現象であるが、男と女でこれほど違いが出るものもない。昨日は帰ってきてからすぐに寝てしまったし、起きたときにもういなかった。てっきり用をすませていたかと思ったが我慢していただけみたいだ。


「ちょっと待って。シャリアは刑事だよね。そういうものには慣れているんじゃ」

 現場に出ている刑事なら男性の裸を見る機会など一度や二度じゃないはずだ。想像したくないほど、酷い状態の遺体だって見ているかもしれない。

「そ、そ、それとこれとは違うんだ。あ、あれを掴んだりなんてしないし」

 消え入りそうな声を零しながら、両腕を抱いてしゃがみ込む。頬は紅潮しており、耳まで真っ赤になっていた。銀河を駆ける刑事の勇ましさはなく、宇宙人などという常識外れの姿もない。こういうところは普通の女の子だった。

「頼むよ、シャリア。このままじゃえらいことになる」

 最悪の光景が広がり、ぞっとしてしまう。この年齢でそれは流石にしたくない。今は自分でなくても辛いものがある。


「やれ、やるんだ。逃げるな。ファイトだ」

 必死に自分を鼓舞している。他でもないシャリアがわかっている。生理現象には敵わないことを。このままでは何も解決しないことを。既に膀胱は限界を向かえており、脂汗を掻いている。相当辛いはずだ。これはどこかで必ず直面する問題なのだ。乗り越えなくてはいけないのだ。


「僕も付いていこうか」

 静かに首を振り、ゆっくりと立ち上がる。覚悟を決めた横顔は神話に出てくる戦士のように凛々しい。要塞の虎口めいた扉を開き、勇ましく中に入っていく。永遠にも感じられる沈黙が訪れる。


「うぎゃぁぁあぁぁあぁあああああああああああ」


 轟く叫びを耳にしながら、両介は静かに祈る。その激闘を讃えるように。


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