第2話 知らない自分


 冷たい風に身を震わせながら、市川両介は目を開ける。自分でも気づかないうちに眠ってしまったようだ。凍ったような固い感触がベッドではないことを伝えてくれる。

 目を覚ましたばかりで頭がはっきりせず、記憶があやふやだった。起きたことを確認するように目を動かす。

 暗闇に包まれた空間は体育館のように広く、錆びた金属と埃の混じり合った独特の臭いがする。壁には細かい穴がいくつも空いており、打ち捨てられた機械が物言わずに放置されていた。ずっと前に閉鎖された工場だ。両介にとって隠れ家と言っても良い場所である。


 ゆっくりと身体を起こしてみたところで違和感に気づく。自分の身体がやけに軽く、重さを感じない。どこかに飛んでいけそうな感覚がするのだ。

 おかしいのはそれだけではない。二つの足で立ち上がることができないのだ。自然な形で四つん這いになっており、立ち上がろうとするとバランスを崩してしまう。自分の肉体なのに自由が効かない。型の決まった器に閉じ込められたような感覚がする。


 小さな悲鳴をあげながら、両介はじたばたと身体を動かす。一つの異変に気づくと、変なところが次々と見つかっていく。

 どうして異常なまでに視界が低いのか。なぜ自分の手はこんなに毛深いのか。そもそもこんな小さくて丸かっただろうか。明らかに人間の形をしていない。

 心臓の音がうるさいくらいに耳を打つ。鼻頭が揺れ、髭が震える。抑えきれない恐怖が全身を支配していく。


「無事だったみたいね」


 こちらを気遣うような声が聞こえてくる。聞き慣れているようで違うような変な感覚。誰よりも知っているようで知らないような声だ。

 枯れそうな口内。渇いた舌が痛い。爆発しそうな心を押さえ、ゆっくり振り向くと同時に割れんばかりの大声をあげていた。


 そこに立っていたのは紛れもなく市川両介だった。見間違えるはずがない。毎日鏡で見ている顔だ。

 あまりにもおかしい。自分は確かにここにいるのに。思考が追い付かないなか、足元に落ちていた割れたガラスが目に入り、己の姿をはっきりと浮かび上がらせる。


 一匹の黒い猫がガラスの向こうから覗いていた。

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