第55話「幸せになりたい」

「ようやく終わった……」


 イベントが終わったのは夜の9時。

 慣れない格好で歩き回ったものだから、もうクタクタである。


「お疲れ様でした、爽太さん」


 アシュリーが自販機で売られているコーンポタージュを渡してきた。

 10月にもなるとそろそろ寒さが本格化し始めた。

 昼はまだ大丈夫だが、夜は冷え込む日が続く。

 汗かいた後だと余計に冷える。


「ありがと、アシュリー」

「いえいえ、これくらい」


 いつものようにアシュリーは微笑む。

 彼が座るベンチの横に彼女も佇み、同じ飲み物を開封する。


「疲れたでしょ。勝手にイベントに振り回されて」

「ええ。流石にクタクタです。身体が鈍りましたね。昔はこの程度では疲れることなんてなかったのですけど」

「この程度……ああ、戦場か」

「はい」


 戦場。


 その単語を聞いただけで、アシュリーは顔を暗くした。

 やはり戦場に良い思い出なんてないのだろう。

 むしろ、掘り返したくない思い出もあるのではないか。


「……変なこと思い出しちゃったかな」

「いえ、そういうことでは……」


 と言うものの、やはり顔は暗く、重い。

 地雷を踏んでしまった、と後悔の念に苛まれながら、瀧本は空を眺める。

 綺麗な星空だ。

 だけどそれだけで淀んだ空気が変わるわけでもない。


 ポツリと、アシュリーは呟いた。


「今の私は幸せなのだなと、つくづく思います。美味しいものを食べて、気持ちのいいベッドで眠ることができて。それは向こうの世界でもそうだったのですが、爽太さんと出会ってからの方が、より深い幸せを得られているような気がするんです。それと同時に、やはりふとした瞬間に罪悪感を感じてしまうんです。自分は、このまま幸せになってもいいのだろうか、と」


 前にも聞いたような記憶がある。

 やはりそうそう自分の中で気持ちを整理できないでいるみたいだ。

 実際瀧本自身もアシュリーの立場になったら……同じように悩むかもしれない。


「戦争の記憶を忘れないことはもちろんなんだけど、今、君が幸せだということも、ちゃんと記憶に留めるべきだと僕は思う。偉そうなことを言える人間じゃないけれどさ、人は誰もが皆幸せであってほしいから」

「素敵な言葉ですね」


 ふふ、と笑いながらアシュリーも空を見上げる。

 心なしか先程よりも晴れやかな表情をしていた。


「きっと私は、これからも迷い続けます。今までの行いが、私の足を止めるかもしれません。けれど私は、幸せになりたいです。あなたがそう望んでくれるなら」


 ニコリ、とアシュリーは瀧本に向かって微笑んだ。

 月明かりが彼女を妖艶に照らす。

 どきり、と瀧本は心臓を撃ち抜かれたような感覚に陥り、すぐにベンチから立ち上がる。


「先に帰ってて。僕、まだ仕事が残ってるから」

「わかりました。あ、今頃アズベルトたちがナタリーと一緒に家でホームパーティをやっていますよ」

「じゃあできるだけ早く帰るよ」

「くれぐれも無理なさらないでくださいね」


 わかってる、と返事をし、瀧本はアシュリーと別れた。

 とはいえ残っている仕事はほんの少しだ。

 だから今こうしてアシュリーと適当に雑談をすることができたのだけれど。


「サボらないで手伝ってほしいなあ」


 矢野がぶう、とふてくされた様子で瀧本を待ち構えていた。

 あの魔女の格好から一転し、なんでもないただの格好へと戻っている。


「どうせアーちゃんとイチャコラしてたんでしょ」

「イチャコラって……言い方に気をつけろよ」

「ふうん、アーちゃんと一緒にいたことは否定しないんだぁ」


 わざとらしく矢野は瀧本を挑発する。

 が、その手には動じない。


「さっき見てただろ、遠くから」

「あはは、バレたか」


 会場の撤収作業を進めながら、矢野は笑う。


 彼女がいなかったら、このイベントはここまで盛り上がらなかっただろう。

 スタッフの衣装の大半が矢野のセレクトだ。

 と言ってもクオリティは千差万別で、ただ彼女がネットで発注したものから完全に自作したものまでさまざまである。

 もちろん瀧本の衣装は前者であるけれど。


「ありがとね、衣装。大変だったでしょ?」

「ううん、ほとんどネットで取り寄せたものばっかりだし、あとは適当にアレンジするだけだったから、思ってたよりは楽だった。気合入れて作ったの、あたし自身のコスだけだからなあ」

「それでも、君がいてくれたから、このイベントもみんな喜んでくれた。アシュリーやナタリーだって。ああ、ナタリーの方はどうかな」

「そっか、そう言ってもらたら、嬉しい」


 えへへ、と少女のように微笑みながら、矢野は瀧本の元を離れていった。

 彼女の後ろで、別のスタッフが矢野の名前を呼んでいる。


「どうせ家でホームパーティしてるんでしょ? あたしも誘えー!」


 そう叫びながら、彼女は手を振って去っていく。

 やれやれ、と息をつきながら、瀧本は再び作業の手を進めた。


「そうだな、今日くらい、矢野の好きなようにさせてやろうか」


 と独り言を呟いて、矢野が家に来た時のことを思い出す。

 ……ほとんど好き放題やられているような気がするけれど、まあいいだろう。

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