第51話「名前のない時間」

 矢野が帰ったのはもう11時だ。

 あの後も彼女は信じられないくらいの酒を平気でがぶがぶと飲んでいく。

 その姿は瀧本を始め、アシュリーとナタリーですら心配してしまうほどだった。


「いい加減にしておけ。本当に身体が心配だ」

「大丈夫だって。平気平気」

「そう言ってこの前フラフラになってただろ」


 ふと、公園での出来事を思い出した。

 あの妙に色っぽかった矢野は……できればもう拝みたくはない。

 あれは心臓に悪い。


 今日はまだ足元が大丈夫だ。

 今のうちに帰ってもらった方が得策だろう。


「あー、全然酔えない」

「ならよそで飲んだらどうだ? うちには缶ビールしかないし、酔いたいなら店の度数の高いものを飲んだらいい」

「それだ。ありがとう瀧本くん。今日はいい時間を過ごせた」


 どうだろうか、と問いたくなる。

 いつも通り矢野は場をやかましくして、ナタリーがそれに反骨精神を見せてぎゃーぎゃーと騒ぐ。

 それを、アシュリーが楽しそうに微笑む。


 ……少なくともアシュリーにとっては、賑やかで楽しい時間だったのかもしれない。


 帰る! と矢野は勢いよく玄関の扉を開け、陽気な歌を歌いながら家を出ていった。

 最初から最後まで終始ご機嫌だった。

 あれくらい気楽に生きれたらいいのに、なんて思いながら瀧本は再びリビングに戻る。

 

 飲みすぎたせいで身体が言うことを聞いてくれない。

 矢野に半ば無理やり強要され、いつも以上のアルコールを摂取してしまったのだ。

 ボロボロになりながらも、瀧本はリビングのソファでごろんと横になる。

 疲れが一気に襲いかかってきて、立つ気力もない。


「大丈夫ですか?」

「ああ、うん。大丈夫じゃないかも。ちょっと横で休むね」


 にへら、と瀧本は、顔だけをアシュリーの方に起こし、またゆっくりと頭を横に寝かせた。

 気分も悪くなってきた。

 最悪、吐いてしまうかもしれない。


 横になってから、意識が急に混濁してきた。

 ぐるぐると天井が回っていく。

 ああ、これは本当にダメなやつだ。

 そんなことをボーっと考えているうちに、だんだん瞼が重たくなっていった。


 そこからは覚えていない。

 気がついたら朝になっていた。


 目が覚めて、きょろきょろと見渡すと、自分の部屋だった。

 恰好は昨日のジャージのままで、瀧本はあくびを一つかましてリビングに向かう。


「おはようございます爽太さん。気分はどうですか?」

「あ……うん。大丈夫。ありがとう」


 アシュリーはいつも通り朝食を作っていた。

 ハムエッグにトースト。

 いつもよりもお洒落なメニューだ。


 瀧本に遅れること数十秒、ナタリーもリビングにやってくる。


「貴様、自己管理はしっかりしろ」

「面目ない。僕、いつの間にかかなりお酒に弱くなってたみたい」

「いえ、あれは飲み過ぎです」


 アシュリーの注意に、ナタリーもコクコクと頷く。

 まるで赤べこだ。


「ごめん、心配かけたね。次からは気を付けるよ」

「はい、しっかりしてください」


 3人はテーブルに向かい合い、いつものように朝食を楽しむ。

 しかし瀧本の頭はまだズキズキと痛んでくる。

 今日が休日で本当に良かった、と瀧本は頭の痛みと戦いながら、ハムエッグを食べていく。


「2日酔いだな。矢野はあれ以上飲んで平気なんだから、本当に化物だと思うよ」


 本人がいないのに、呆れたようにナタリーは呟いた。

 それは瀧本も疑問に思っているところだ。

 ひょっとしたらアシュリーやナタリーのように、異世界からやって来た人間の得意能力だったりするのだろうか、と素っ頓狂な発想までしてしまうくらいに。


 朝食を食べ終えて、何となしにベランダに出てみた。

 まだ夏真っ盛りだ。

 蝉の音がうるさくて、耳にするだけでも暑苦しい。


「朝から何黄昏てるんですか?」


 アシュリーが首を傾げながら瀧本の顔を覗く。

 その仕草がとてもあざとくて、どきりと、瀧本の心臓を射抜く。


「いや、今日も一日平和だなって」


 プイッと別方向を向き、適当に誤魔化してみせた。

 今の顔を彼女に晒すわけにはいかない。

 だって、火照ってまともな顔ではないと思うから。


「なんですかその答え」

「いいだろ、別に」


 ケラケラとアシュリーは笑い、瀧本の隣に立つ。

 コツン、と肩がぶつかった。

 それだけでも、彼女が華奢な女性だということが嫌と言うほどわかる。


「今日は何をしましょうか。午後からはナタリーはバイトですし、久しぶりに2人きりになれますね」

「そうだな。まあ、どこかに出かける予定もないし、暑いし、適当に部屋の中でゴロゴロするのも悪くないかもね」

「ふふ、それもそうかもしれませんね」


 そう微笑む彼女の奥には、どこかいたずら心が含まれていた。

 子供っぽくて、無邪気な表情。

 少しは、心を明るく保てているのかもしれない。


「その前にまずは私の仕事を探さないとですね」


 今となっては自虐も言えるくらいにはなった。


「僕も手伝うよ。ああ、矢野にも一応アドバイスを窺うんだった」

「ではメッセージしましょうか?」

「いや、それはいい。きっと飛んできそうだから」

「そうですね。そうしましょう」


 たまには、こうやって名前のない時間を過ごすのも悪くない。

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